改憲vs護憲を超えて

憲法改正の流れが現実的になった時に、建設的な議論ができますように

国粋主義のすすめ〜新元素に湧く「日本」へ〜

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新元素発見のニュースに湧いている日本。

その命名が「ジャポニウム」となるのが濃厚、とはいかなることか。

私たちは「ジャパン」に住んでいるのか。

断じて否。

ニッポニウム」「ニホニウム」ではダメなのか。

 

日本でオリンピックを開催しても、なぜか五十音順ではなくアルファベット順に国々は入場し、我が国は「N」ではなく「J」の時に入場する。

この主体性のなさ。

 

だいたい、「日本」という国名だってそもそも情けないのだ。

中国から見て日の出の方角、という意味。

後付けで、日の神たる天照大神の子孫が統治するからだ、とか、大日如来の本国だ、とか、いろいろと言い出したようだが、平安時代の時点ですでに貴族たちもその由来をろくに把握していない始末だ。

 

自主憲法などと息巻く前に、自主国名からだろう。

中国から見て日の出の方角なので日本と名付けました、英語でJapanと言うらしいのでジャパンから来たと言います、でいいのか。

「葦原の瑞穂の国」でも「大八洲の国」でも構わない。

愛国心を振りかざすなら徹底してみたらどうか。

都合の良いところだけ国の誇りだ云々と言い、都合が悪いところは議論の俎上にも乗せない。

そういう御都合主義的な愛国の作法もあるのかもしれないが、薄っぺらいね。

 

せっかくなので、今回の新元素の命名は、「葦原の瑞穂の国」や「大八洲の国」にちなんだ名前にしたらどうか。

語呂が悪そうだというのであれば、埼玉県和光市の仁科加速器研究センターでの研究の成果だというから、「武蔵国」にちなんだ名前でもいい。

そもそも我が民族における「国(クニ)」というのは、のちの令制国レベル(あるいは郡レベルなど)の単位だったはずだ。

 

・・・以上、適当に国粋主義のすすめをしておく。

安全保障の展望〜「中国」というリスク〜

自衛隊は災害救助隊に改組すべし - 読む・考える・書く」というブログ記事で「日本側からバカなことを仕掛けない限り中国が攻めてくることなどないし、万一バカなことをやらかして中国と全面戦争に突入したら自衛隊では対抗できず敗戦必至」ということが書かれていた。

それに基づいて氏の自衛隊論が展開するのだが、私見では、その前提が正しければ、その後の論には問題はないだろう。おそらく、安保法制賛成派や改憲派が「噛み付く」のは、前提の部分だ。

前提の部分は、2つに分かれる。

日本側からバカなことを仕掛けない限り中国が攻めてくることなどない」

「万一バカなことをやらかして中国と全面戦争に突入したら自衛隊では対抗できず敗戦必至」

ということだ。

安保法制賛成派や、改憲派からの反論としては、

「日本側がバカなことを仕掛ける可能性があるのと同様、中国側もバカなことを仕掛けて攻めてくることがある。かつての大日本帝国のように。だから備えが必要なのだ」

「万一の全面戦争、という時に自衛隊だけでは対抗できないからこそ、他国と軍事同盟を結べるよう、集団的自衛権を認めるべきなのだ」

というものがある。

その前半部分、つまり、「中国側も・・・」というについて、ここで述べたい。

 

すでに、氏が書いている、「謝罪と反省なくして日本の安全保障はない - 読む・考える・書く」という記事にある通り、確かに、今の中国には、今の日本を全面侵略する合理的な理由が存在しない。現実問題として、あるとすれば、尖閣諸島を占領するくらいではないだろうか。

といえば、もちろん反論があるだろう。

尖閣諸島だって国土の一部なのだから、失ってはいけない」

「陸地を失うのはそれくらいまでだとしても、海域、経済水域についてはそれでは済まない」

「国土に直接関係なくたって、南シナ海が中国の手に落ちれば石油の輸入に関して問題が生じて、国益を損なうのだ」

など。

 

それらについて、言えることは、「国益を損なう」という面では反論しようがないことと、「国家存亡の危機には陥らない」ということだ。

もちろん、そのように言えば、「安保法制を認めたって、現実問題として直ちに戦争になるわけでも徴兵制になるわけでもない。国家存亡の危機になるわけではない。いくらか国益を損ないそうだから、ある程度の対応ができるようにしておくのが安保法制なのだ」という反論があるだろう。

これには、安保法制を認めることによるリスクと、認めないことによりリスクとを比べて、どちらのリスクを選ぶべきか、という問題が存在するだろう。これがまた難しい問題なのだが、そんなことを言っても、すでに安保法制は通った。

 

さて、全ての国が、合理的に国益を求めて動く、と仮定すれば、行き過ぎた国益追求が却って国益を損なうということまで予測して、ある程度の国益追求で治まるはずだ。ところが、そうとは限らない。だから外交は難しい。

中国が共産党の支配下にあり続ける限り、南シナ海東シナ海での国益追求は終わらないだろう。一方、彼らは長期政権となった党派にありがちな、いわゆる「保身」を考えるだろうから、無理はしないだろう。他国にとって致命的になるほどの侵略は行わない、と考えて良いと思っている。

むしろ、リスクは、「共産党支配の終焉」という場面にある。

かつての日本を振り返ると、明治の藩閥政治に抵抗する自由民権運動の方が対外強硬派であった。

今の中国でも、反日デモ共産党政権がどうにかコントロールする、という立場にある。反政府運動が対外タカ派ナショナリズムの要素を持つという構図は同じである。

怖いのは、中国での共産党独裁が壊れた時なのだ。とてつもない反日政権が誕生したらどうするのか。かつての大日本帝国の再来だったらどうするのか。

 

私見では、安全保障において最も大切なことは、

一、味方を増やすこと

一、敵を減らすこと

であると思っている。「味方を増やす」「敵を減らす」のが国益になる、ということである。

日本は決して小規模な国家ではないが、偶然、米・露・中という法外に巨大な国に囲まれているために、一見小さく見えてしまう。実際には、比較的大きな国である。しかし、米・露・中に比べれば小さい、というのもまた紛れもない事実である。

さて、米・露・中が直接対決する可能性がないなら、これら3国とは、「米とは味方」「露・中とは敵ではない」という状況を作るのが得策であると私は思っている。というか、露・中を敵にするのは全く得策ではない。むしろ、その3国に囲まれていることを利用して器用な外交をするのが得策である。

そして、その3国に囲まれた上に、北隣に非常におかしな存在を抱えてしまった隣国については、何が何でも味方でありたい。右派の中には、嫌いな人が多いのだろうが、露・中との関係を考えた場合、戦略的に(万が一、戦争になった場合を考えると)その隣国が敵なのか味方なのか、というのは大きい。それは、近代の日本の戦争を見れば明らかであろう。

国のプライドだとか、誇りだとかよりも、戦略的な損得の方が意味のあるものだ。中期的・長期的視野まで見据えた外交をするべきである。

将来中国で共産党政権が倒れた時に、どう転ぶか。その際に、「反日」というのが彼らの旗印にならないような工夫をする、というのが最も大切なことだと思っている。

「十七条憲法」の精神はその後どうなったのか?

※以前の記事「リベラル・護憲・左派が抑えるべき歴史上の天王山 - 改憲vs護憲を超えて」に関連して

 

「日本 和 精神」などのキーワードでGoogle検索すればわかるが、日本には古来からこの「和の精神」があって、それが素晴らしいとか、それがどうだとか、いろいろな意見が出ている。

その際に多くの場合引き合いに出されるのが、この「十七条憲法」であるのは言うまでもない。

有名な保守論客の櫻井よしこ氏は、ご自身のブログで「 混沌たる世界、戦略は聖徳太子に学べ 」と題して、次のように述べている(以下、以前の記事と重なるが、ブログより引用)。

 

「日本が世界に示し得る価値観は7世紀の聖徳太子の時代に遡れば明確であろう。太子の外交と治政を知ることで日本の真髄も感じとれる。歴史を辿れば、十七条の憲法で目指した価値観が約1260年後の明治政府樹立時に、五箇条の御誓文として蘇ったことにも気づくだろう。」

「十七条の憲法と五箇条の御誓文の精神がピタリと重なることは、十七条の憲法に込められた価値観が約1260年間、日本国統治の基本となっていたことを示している。その価値観は、明治維新から78年後の昭和21(1946)年1月1日に、三度、鮮やかに登場する。連合国軍総司令部GHQ)の占領下、厳しい検閲制度ゆえに自由な発言が許されなかった状況の下、昭和天皇が新年の御詔勅の冒頭、五箇条の御誓文全文を読み上げられたのだ。」

 

1946年1月1日の「詔勅」とは、一般には「人間宣言」という誤解を招くタイトルで言及されることの多い昭和天皇の詔のことである。その詔は確かに神格化の否定という要素を含むものであったが、それ以上に、冒頭に彼が「五箇条の御誓文」を読み上げたことの意味は大きい。新たな日本が出発するにあたって、その精神に立ち返ろう、というものである。

その「五箇条の御誓文」とは、1868年に明治天皇が天地神明に対して誓った政府の方針であるが、内容は以下の通りである。

 

一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

 

さて、櫻井氏の指摘するように、これは「十七条憲法」の精神と「ピタリと重なる」ものであろうか。

そんなことはわかるはずはない。櫻井氏がいかに碩学で賢者であろうと、史料の少ない7世紀前半に書かれた「十七条憲法」の精神を正確に知ることは不可能であり、それが由利公正・福岡孝弟・木戸孝允の手を経て明治天皇から発せられた「五箇条の御誓文」の精神と「ピタリと重なる」なんて、証明することは不可能である。

櫻井氏による「十七条憲法」の精神についての想像と、櫻井氏による「五箇条の御誓文」の精神の想像とが、偶然ピタリと重なった、くらいに思っておけば良いだろう。

 

さて、櫻井氏は、「五箇条の御誓文」と「十七条憲法」の精神が重なるとのご自身の予想を前提として、「十七条の憲法で目指した価値観が約1260年後の明治政府樹立時に、五箇条の御誓文として蘇った」と述べている。ところが、そのことが「十七条の憲法に込められた価値観が約1260年間、日本国統治の基本となっていた」ことを示すのだ、と、矛盾することを述べている。

「蘇った」ということは、蘇る前には死んでいた、ということになる。

十七条の憲法に込められた価値観が約1260年間、日本国統治の基本となっていた」のであれば、それは「蘇った」とは言わない。

氏の言っていることは明らかに矛盾しているのだ。もっとも、誰しも、書き間違えることはあるだろうから、揚げ足をとるのはやめておこう。

 

では、「1260年間保たれた」「五箇条の御誓文で蘇った」どちらの解釈が正しいのか。あるいは、どちらも間違っているのか(五箇条の御誓文」と「十七条憲法」の精神が重ならないのであれば、どちらも間違っていることになる)。

 

もし「十七条憲法」が1260年もの間「日本国統治の基本」であったなら、1260年間の間に、少しくらい、何らかの形でその片鱗が残っていてほしいものである。少なくとも、「十七条憲法」が1260年もの間「日本国統治の基本」であった、というのであれば、そのような証拠を見せてほしい

「十七条憲法」の精神を確認するような為政者の発言であったり、「十七条憲法」の精神に違反するような不埒な為政者に対する非難であったり。少しくらい日本の歴史を知っていれば、わかるだろう。その1260年間に日本に現れた為政者の中に、「十七条憲法」の精神に則っているとは言い難い人物も大勢いたことは。

 

さて、「十七条憲法」の精神は、制定後どのように引き継がれたのか、あるいは忘れられたのか。

とくにこれに関して研究書などを読んでいないので、管見の限り、という話になるが、中世までの文献にあたると、

・『日本書紀』では全文が引用されている

・『日本霊異記』に聖徳太子の話が載り、冠位制定などの事績がいくつか書かれるが、憲法について言及なし

・『弘仁格』の序文には、初めての法、として言及あり

・「六国史」には、『日本書紀』に全文が引用されている以外は、憲法についての言及は見えない

・平安中期までの聖徳太子関連の史料をみると、『上宮聖徳法王帝説』『上宮聖徳太子傳補闕記』には言及あり。『七代記』『聖徳太子伝暦』には全文の記載あり

・『愚管抄』で聖徳太子のことは多く書かれるが、憲法について直接の言及はなし。ただし、仏法と王法についての慈円の考えがここで記されていて、憲法が念頭に置かれていた可能性はある

・「御成敗式目」は51条。十七条憲法を意識したと言われる

・「建武式目」は17条。十七条憲法を意識したと言われる

・『神皇正統記』には言及あり

といった感じである。

 

本当に7世紀初頭の推古朝に「十七条憲法」が制定されたとして、それがどれだけ重んじられたのか、というのを推し量るのは難しい。しかし、8世紀初頭に成立した『日本書紀』に全文が載る以上は、少なくとも8世紀初頭の時点では重んじられていたのではないか、と想像できる。壬申の乱などの争乱があった後だからこそ、「和」を大切にしよう、という考えも出てきたのかもしれない。個人的には、権力者として知られる藤原不比等もあまり専制的なイメージはないように思えている。

その後はどうだろうか。

「十七条憲法」の精神が大切にされ続けていたというのであれば、長屋王の変橘奈良麻呂の乱恵美押勝の乱藤原種継暗殺事件など、「和」からは程遠い陰惨な事件が起こるたびに、この憲法を振り返った詔などが出てくれると、なるほど、十七条憲法の精神は大切にされてきたのだな、と思えるのだが、今のところ見つけられていない。

つまり、平安時代までにおける日本の政治において、「十七条憲法」の精神が重んじられてきた、と示せる証拠は見つからないのである。

 

ところが、鎌倉時代に入って様子が変わる。武家政権の側から、「17」という数字にこだわった法令が出るからである。ちなみに、「禁中並公家諸法度」も17条だ。

そして、51条の「御成敗式目」を制定した北条泰時については、連署評定衆の設置に見られるように、専制的でない政治志向を見せた人物のようなイメージがある。

こういった現象の背景には、「中世太子伝」という言葉もあるが、中世に入ってからの聖徳太子信仰の隆盛というものがあるだろう。

 

・・・結論を出すのは難しい。

「十七条憲法」からの「1260年間」、その精神に基づいて日本が統治されていた、ということを証明することはできないだろう。

かといって、1260年間にわたってそれが完全に忘れられていたわけでもない。

聖徳太子信仰の影響のもとに、時折ふと思い出される程度、というくらいに捉えておくのが妥当なのではないか、と思っている。

戦後歴史教育の問題点 (3)時代区分のおかしさ・その1

旧石器時代」「縄文時代」から始まる日本史の時代区分のおかしさについては、すでに多くの人が指摘しているところであろう。

 

①旧石器・縄文・弥生・古墳・・・日本列島上の広い領域に広がった文化の特徴による時代区分

 

②飛鳥〜江戸・・・日本という国家の政治の中心地による時代区分

 

③明治〜・・・日本という国家の元号あるいは天皇の変化による時代区分

 

①と②と③では、時代区分の基準が異なる。

春夏秋冬と1月2月3月とで時期区分の基準が異なるのと同じように、①②③では基準が異なっているのである。

「なんで春は1月より長いんですか?」という質問をする人はいないだろうが、「なんで縄文時代は他の時代より長いんですか?」という質問をする人は聞いたことがある。

異なる基準のものを、十把一絡げに「○○時代」と呼ぶこと自体がおかしいのだ。

 

おかしい結果、何が起こるのか。

「日本」という国家の政治史の区分である飛鳥時代奈良時代等々と、「日本」という国家誕生以前の時代区分である縄文時代弥生時代等々とが、同じ「○○時代」という数直線上に並べられてしまったら、いつから日本という国家があるのかが見えにくくなってしまうわけだ。

その結果、「日本は昔からあった」「日本は初めからあった」という荒唐無稽な話が登場してしまうのだ。

 

なんと、「神武天皇から」「紀元前660年から」よりも、もっとおかしい話になってしまっているのだ。

 

その荒唐無稽な話を、教科書に載せてしまう人たちもいるようだ。

たとえば、

http://www.fusosha.co.jp/kyokasho/rekishi2.html

ありがたいことに、いわゆる扶桑社版の『新しい歴史教科書』の一部をここで見ることができる。

序章「歴史への招待」というところに、「歴史モノサシ」という不思議なものがある。ここで、旧石器・縄文時代から現代まで、一本のモノサシで日本の時代区分を載せ、「日本という国がいかに長い歴史を持った国であったか」などと感慨深く書いているのであるから噴飯物である。

いえいえ、その頃、日本どころか、国もありませんから。そんな時代の人たちの営みを、日本という国が持っている歴史だ、などというのは傲慢過ぎやしませんか?

まあ、彼らは彼らなりに、より良い歴史教育を目指しているらしいので、私は、彼らを責めるよりも、彼らを勘違いさせてしまった「時代区分」を責めたい。

 

少なくとも、明治以降、元号に「○○時代」をつけるのは、やめた方がいい。

天平期」「元禄期」などというのだから、「明治期」「平成期」などと呼べばいい。

先史文化については、「オーリヤニャック文化」「仰韶文化」のように、「縄文文化」「弥生文化」「古墳文化」などと呼べばいい。

 

①「日本」以前・・・旧石器文化、縄文文化、弥生文化、古墳文化

②「日本」以後・・・飛鳥時代奈良時代、・・・、江戸時代、近現代(明治期・大正期・昭和期・平成期)

 

と分ければ、今までよりはちょっとマシになるのではないかと思っている。

①にも②にもまだ問題はたくさんある(どこから「日本」とするのか、①の文化の区分は適切か、②の基準(政治の中心地で区分)は妥当か、近現代をどうするか、・・・)のだが、それについては次回以降の記事で。

リベラル・護憲・左派が抑えるべき歴史上の天王山

「保守・改憲・右派」vs「リベラル・護憲・左派」という単純化した図式で日本を捉えた場合、それぞれが持っている旗印が何なのか、ということを挙げると、

・「保守・改憲・右派」は「愛国」「国益」「国防」

・「リベラル・護憲・左派」は「平和」「立憲」「民主」

というところではないかと思っている。

もちろん、「愛国」「国益」「国防」について左派が、自分らの方が愛国的だし、国益に叶うことを主張しているし、右よりのことをやっていたら国が却って危機に陥るのだ、という形で言論を並べ立てて攻撃に出ることもあるだろう。

逆に、「平和」「立憲」「民主」について右派が、自分らの方が平和主義を現実的に実現できるし、自主的な憲法を制定できるし、民主主義的なんだ、という形で言論を並べ立てて攻撃に出ることもあるだろう。

 

しかし、ここで、舞台が「日本」である、という特性を踏まえて考える必要がある。

舞台がアメリカであれば「自由」、フランスであれば「自由・平等・友愛」などと、何を主張するにしても、確実に抑えておきたい天王山というものがある。

 

日本であれば、幕末の論争などを見ていても、それが「天皇」なのではないか、という気がしなくもないのだが、今の天皇については、いずれの側も旗印にしにくい。

 

アメリカには「独立宣言」があり、フランスには「人権宣言」があるが、日本には何があるのか。

とくにない、といえばそれまでなのだが、あり得るとしたら、「五箇条の御誓文」であろう。明治維新だけでなく、自由民権運動や、大正デモクラシーの旗印にもなり、戦後の昭和天皇の詔(いわゆる「人権宣言」)でも冒頭で触れられており、新日本建設の旗印とされている。

 

ところが、である。

本来は、封建的な要素を残す幕藩体制の打倒であったり、藩閥政府へのアンチテーゼであったり、民本主義への理想であったり、戦後民主主義への期待であったり、といった、より「リベラル」な意味が込められて用いられ続けてきたものなのにも関わらず、今はそうは用いられていない。

これについては別の記事で詳しく述べたいと思う。

 

また、「五箇条の御誓文」と関係する(わけではないのだが、関係させられがちな)ものとして、「十七条憲法」がある。この2つがリンクすると、なかなか強烈になる。

 

有名な保守論客の櫻井よしこ氏は、ご自身のブログで「 混沌たる世界、戦略は聖徳太子に学べ 」と題して、次のように述べている(以下、ブログより引用)。

 

「日本が世界に示し得る価値観は7世紀の聖徳太子の時代に遡れば明確であろう。太子の外交と治政を知ることで日本の真髄も感じとれる。歴史を辿れば、十七条の憲法で目指した価値観が約1260年後の明治政府樹立時に、五箇条の御誓文として蘇ったことにも気づくだろう。」

「十七条の憲法と五箇条の御誓文の精神がピタリと重なることは、十七条の憲法に込められた価値観が約1260年間、日本国統治の基本となっていたことを示している。その価値観は、明治維新から78年後の昭和21(1946)年1月1日に、三度、鮮やかに登場する。連合国軍総司令部GHQ)の占領下、厳しい検閲制度ゆえに自由な発言が許されなかった状況の下、昭和天皇が新年の御詔勅の冒頭、五箇条の御誓文全文を読み上げられたのだ。」

 

なんと、こうやって無理やり重ねてしまうことも可能なのである。

実際には、冷静に読めばわかることなのだが、この櫻井氏の論には矛盾もあり、論理の飛躍もあり、はっきり言って滅茶滅茶である。しかし、それは次の記事に回すこととしよう。

 

ここで言いたいことは、日本という舞台で論じ合うに当たって、「五箇条の御誓文」が天王山であり、「十七条憲法」まで抑えるとかなり強力なのではないか、ということである。

いずれも、専制政治に対するアンチテーゼとして用いることができる武器である。諸刃の剣かもしれないが。

ところが、「天皇」の印象が強すぎるために、どうしてもリベラル・護憲・左派」はこれらを忌避してしまう。

果たしてそれは得策なのだろうか。

その強力な旗印を、相手に渡してしまって良いのだろうか。

「日本」という舞台で論戦する相手に、あまりに有効な武器を渡してしまっているのではないだろうか。

戦後歴史教育の問題点 (2) 「天皇」を知らない生徒たち〜新たな天皇像の欠如〜

戦後歴史教育の弱点として、皇国史観天皇像に代わる、新たな天皇像を打ち出せていないことが挙げられる。

戦後歴史教育を受けた生徒は、天皇が何者なのかがよくわかっていないのだ。「象徴らしいけど・・・?」「よくわからない偉い人」という印象が残るだけだ。

 

でも、さすがに皇国史観天皇像は克服されたのでは?と思う人は、日本史教科書や日本史資料集の「歴代天皇」「天皇家系図」などを見てみるとよい。特に南北朝あたりを見てはどうか。相変わらず南北朝正閏論争の結果(南朝正統の解釈)を引きずって、南朝天皇だけに歴代の通し番号を振り、北朝天皇にはカッコ付きの番号しか振られていないではないか。「三種の神器」も持ち、正統性に何の曇りもなかったはずの光厳天皇でさえ、後醍醐天皇の意向に従い、相変わらず歴代から外されている。

中には、相変わらず神武天皇からの代数を載せているものもある。もちろん、初期の天皇の史実性が薄いことなどを書いていたりするが、なぜ史実性が薄いのかのしっかりした説明はほとんどない。

 

では、皇国史観天皇像に代わる、戦後の新たな天皇像とは何か。

ここで出てくるのが「象徴」という答えでは、敗戦後の天皇の位置付けの一面しか見ていないことになる。

 

日本国憲法の第1条には、

 

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 

とある。

「象徴」とももちろん書いてあるが、大切なのは、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」というところだ。

つまり、日本国憲法によると、天皇の「象徴」という地位というのは、「日本国民の総意」に基づいた結果として保障されるものである、ということなのである。

言い換えれば、「象徴天皇」というのがどのような存在なのかは、日本国民が意志を持って判断することができるということなのである

ところが、その肝心の日本国民が、天皇をよく知らない。意見を持っていない。それゆえ、今の国民がどのような「総意」を持っているのかも、何が何やらよくわからないものになる。

いや、それがいいのだ、という考え方もあるかもしれない。

しかし、「よく知らない」状態は、「学校では日教組の左翼教師のせいで教えてもらえないけれど、本当は・・・」という囁きによって簡単に洗脳される状況でもある。

 

私が思う「新たな天皇」とは、日本の歴史の中で常に何らかの形で重要な位置付けを保ち続けてきた天皇を、国民がよく知っていて、気軽に論じられる状態である。

天皇って必要だよね」「いや、いらないよ」「やっぱり天皇を元首にしないと」「いや、天皇は我々と同格の国民の一人でいいよ」「公選制にしたら?」「木や金で作ればいい(by高師直)」などと、天皇についての様々な知識を以て国民(もちろん国会議員も含む)が論じられる状況こそが、「新たな天皇像」だと思っている。

 

少なくとも、「象徴」という枠の内部で論じ合う分には、憲法の枠内であるから、かなり自由な議論が可能なはずである。

「象徴」という枠から外れさせよう、という議論の場合は、憲法の改正を伴う主張になるから、憲法遵守義務のある立場からの意見であればいくらかリスキーなものになるかもしれない。

しかし、今のご時世、憲法遵守義務のある立場からも、憲法の改正について様々な形で堂々と論じられるのだから、憲法のもとにいる天皇制について様々な形で堂々と論じられても良いはずだ。それが絶対化・神格化を主張するものであれ、廃止を主張するものであれ。

 

そして、「国民の総意」に基づいて定められるのが象徴天皇制の地位なのだから、少なくとも教育の中で、主権者教育の一環として、天皇の地位についてある程度意見を持って論じられる生徒を育てようとするべきではないだろうか。

天皇がなぜ存在するのか(もちろん賛否どちらも可)、なぜ存続しているのか(もちろん賛否どちらも可)、どのような役割が望ましいのか(もちろん今の役割に対して賛否どちらも可)、といったことを考えるだけの知識と論理を持ってもらうべきなのではないだろうか。

なぜ存在するのか、なぜ存続しているのか、ということについては、日本の過去にその答えはある(ただ一つの答えがあるわけではないが)のだから、少なくともその部分については、他の教科ではなく、歴史教育の中で扱うべきであろう。

 

今の天皇は、地位が定まっていないのだ。「なんとなく象徴」「なんとなく偉い人」でしかない。これが永遠に続くとは思わない方がいい。いずれ、「どちらか」に転ぶだろうということを想定した方がいい。

もし、我々護憲・リベラル・左派が、戦前天皇制への逆コースを嫌がるのであれば、教育活動の中でもしっかり天皇を論じられる状況を作るべきだ。

勘違いをしないでほしい。天皇制批判を授業中に生徒に対してぶちまければ済むというものではない。それは意見を持つ力、考える力は生まない。そして、「反日左翼教師が・・・」という批判の格好の対象となり、逆効果となる。

それよりも、洗脳されない状況を作る、ということが肝心なのである。

それこそが、天皇神格化の過去への反省に立った、「新たな天皇像」、つまり、「日本国民の総意に基づく象徴天皇」の姿ではないだろうか。

護憲派が勝つための戦略〜早期の国民投票を?〜

荒唐無稽なことを言うように思うかもしれないが、さっさと憲法改正のための国民投票をやってしまった方が、護憲派に勝算がある。

 

護憲派が今後も頑張って改憲を先延ばしにすることは、ある程度可能だろう。

しかし、どんなに先延ばしにしたって、改憲派はチャンスをうかがって改憲への勝負に乗り出すことができる。

改憲のチャンスが消えるとしたら、それは、国民投票での敗北くらいしかない

だから、改憲派は、今がダメでも、近い将来の、最も勝てそうな時に勝負に出るはずだ。

つまり、護憲派がいくらここで頑張っても、どうせ改憲派は、勝てるチャンスが来たところで勝負するだけなのだ。

そして、きっと勝つのだろう。

 

前の記事に書いた通り、改憲派にとっての「勝てるチャンス」とは、対外的危機と人気首相が重なった時だ。そして、対外的危機を防ぐ手段はないし、人気首相になるであろう「彼」が出てくることを防ぐのも難しい。

なら、いっそのこと、大した人気でもない首相の時に勝負に持ち込んだ方が良いではないか。

しかし、あまりに人気のない首相の時では、勝負に持ち込んでもらえないだろう。

それなら、今の首相、今の東アジア情勢の時がベストではないか?

次の選挙でもし野党が大敗すれば、いよいよ改憲のチャンスだ。そこが狙い目である。

護憲派の方から改憲の是非を発議しても良いくらいだ。

議席の上では与党大勝でも、得票率では大差ない」という状況を見計らって、勝負に踏み切らせてしまえば良い。

それで勝てなければ、もともと護憲派に勝ち目などないのである。

これは、護憲派から「では、憲法を変える必要があるかどうか、国民の意見を聞いてみよう」と切り出すところに面白みがある

自分たちの信じるところに自信があるなら、そこまでやっても良いではないか。

 

・・・と机上の空論を書いてみたが、仮に「改憲護憲か」という議論を「勝ち負け」で決着つけたいのであれば、「護憲派の勝ち」のシナリオというのはそれくらいしかないのではないだろうかと思っている。

それが嫌なら、「勝ち負け」ではない決着法を考えよう