改憲vs護憲を超えて

憲法改正の流れが現実的になった時に、建設的な議論ができますように

憲法改正の時期〜改憲派にとっての最悪のシナリオと理想のシナリオ〜

 

前の記事に引き続いて、同じ論者にリンク。

 

個人的には、今の内閣での改憲は考えにくいと思っている。

 

とにかく日本国憲法が大嫌いだ、絶対に変えてやる、という改憲派にとっての最悪のシナリオは、「国民投票での否決」だ

もし国民投票で「現行の日本国憲法で良い」という民意が示されたら、その民意はデモや世論調査の「民意」と異なり、正真正銘の、誰も文句をつけようのない民意だ。

その瞬間に、日本国憲法は「押し付け」ではなくなるのだ

改憲派の「大義」のひとつがここで崩れ去ることとなる。

もしその後問題が発生した際には、新憲法の制定ではなく、条文の追加や変更などで対応することを余儀なくされるだろう。彼らにとっての夢の「自主憲法」は望み薄になるわけだ。

ということは、国民投票」は双方にとっての最大の危機でありチャンスである、ということになる。

何が何でも改憲、という人たちにとってのベストタイミングは、少なくとも今ではない、ということになるだろう。支持率が高々50%前後の改憲派の首相のもとでの国民投票は、あまりにリスクが大きいのだ。

一度失敗したら取り返しがつかなくなるのだから、おそらく、抜群の支持率を持つ改憲派の首相が出現した時に、国民投票に打って出るのではないだろうか。

そんな時に、今の与党には、「切り札」がいる。たぶん他にいないだろう。

彼は、イケメンで、話し上手で、さわやかで、というところまでは父譲りな上に、父のような尖ったイメージではなく、もっとソフトなイメージまで持っている。

改憲派護憲派を「反日」「左翼」「売国奴」などと罵っている時に、彼が護憲派に「あなたがたが日本を愛していることはよくわかっている」「一緒に新しい憲法を作ろう」などと呼びかけたら、どれだけ効果的だろうか。

 

放っておいても、いずれまた対中国関係の悪化の時期は来るだろう(靖国尖閣問題などで挑発すれば、もっと早くやってくる)。そういう時に世論は右傾化する。

そのタイミングで彼が首相になり、80%以上の支持率のもと、右傾化した世論の中で、挙国一致とともに改憲を訴えたらどうなるか。

今のままでは、護憲派は歯が立たないのではないだろうか。

改憲のための署名、という奇妙さ

kenpou1000.org

 

この日本会議系の団体による署名が、500万近く集まっているらしい。

こんなツイートを見かけた。

 

 

いわゆる「改憲派」の人々について、不思議なことは、「どのような改憲を望んでいるのか?」ということである。

それとも改憲」そのものが目的だとしたら?とても滑稽な話だ。

「あの憲法GHQから押し付けられたものだから変えるのだ」という、戦勝国アメリカへのアンチテーゼに基づいて改憲を主張するのは構わないが、肝心なのは内容ではないのか。

それとも、自分が望まない内容であっても、改憲されればいいのか?

たとえ新憲法のせいで、現行の日本国憲法下の社会よりもマイナス面の大きい社会になったとしても、自主憲法ならばその方が良いのか?

それが嫌なら、変えるか変えないか以前に、まずは内容からではないのか?

 

護憲派はその点はわかりやすい。今の憲法の内容を支持している、ということだから。

内容が素晴らしいと言って積極的に支持する人もいるだろう。

自民党の草案よりはマシ、とか、好きじゃないけど変えるリスクは取りたくない、とか、消極的な形での支持者もいるだろう。

いずれにしても、内容支持だ。その判断が正しいのか正しくないのかは別として、意味はわかる。

 

改憲、という一点で署名を集める、というのはそういう意味で滑稽なことである。

その500万近くの人々は、思い思いの改憲案を持っているか、あるいは、改憲案を持たずに改憲を支持しているのだ。護憲派が支持する内容が1通りしかないのに対して、改憲派は無数の異なる内容を含んでいるのだ。

であるならば、いったい、「改憲派」とは何なのか?

この運動が功を奏して自主憲法が制定された暁には、かつて、何だかよくわからないけれど大日本帝国憲法が発布されて喜んでいた、あの時の臣民たちが復活するのだろうか。

自主憲法ができた、内容はともかく嬉しい、という新臣民が誕生するのだろうか。

 

使い古された言葉だが、最後に引用しておきたい。

「歴史は繰り返す。1度目は悲劇として、2度目は喜劇として」

山本みずき氏のSEALDs批判へのお礼

www.news-postseven.com

 

(イヤミではなく)山本氏は良心的な保守論客であると思っている。叩くための批判などは決してしないだろう。建設的な議論のために批判をしているはずだ。

それを踏まえ、(山本みずき氏が私のような無名人の書くこんな弱小ブログをご覧になることはないだろうが、万が一、ということを考えて)少し意見を書いておきたい。

 

山本氏が指摘するように、たしかにSEALDsの一部は、ネトウヨ顔負けの口汚い言葉で、ネトウヨを彷彿とさせるような知性の無さで、「アベ批判」を展開していた。

非常に良くないものであった。

また、多くの(こちらは「一部」とは言い難い数の)安保法制反対派がしきりに口にしていた「戦争法案」というレッテル貼り。まるで右派が左派に対して「反日」「売国奴」などと言っているのと大差ないくらい、稚拙なレッテル貼りだったように私は感じた。同じ安保法制反対派として決して賛同できなかった。

 

さて、山本氏の記事を読み返してみよう。

 

国際政治や安全保障に関する素養がある周囲の学生の多くは、シールズの主張を冷ややかに見ています

 

という指摘がある。たしかにそうだろう。私もそう思う。ネトウヨが韓国人排斥などを唱えたり、一斉に同じようなサヨク批判、同じような「特亜」批判をするのにも冷ややかな視線があるが、残念ながら、SEALDsに対しても、それに匹敵するくらいに冷ややかな視線があるように感じる。

 

さらに山本氏は、「自分たちの意見のみが正しいという視点に基づくシールズの言説(戦争法案というワンセンテンスポリティックス)は許容できない」」というご友人の引用をした上で、それに「同感」だとした上で、「自分たちの主張こそが民意であると疑わず、異論や反論から耳をふさぐという排他性に危うさを感じる」と言う。

 

自分たちの主張や意見が愛国的であると疑わず、異論や反論は「反日的」「売国的」であると言って耳をふさぐウヨクたちと同じような危うさがあると言えるだろう。たしかにその通りだ。

 

・・・というふうに、しつこいくらいに、山本氏のサヨク批判に、ウヨクの現状を重ね合わせて肯定してみたが、驚くべきことに、山本氏の記事には、サヨクと同じようなタイプの問題点を持つウヨク側に対する批判が一言もないのだ。

 

(繰り返しになるが)山本氏は良心的な保守論客であると思っている。叩くための批判などは決してしないだろう。建設的な議論のために批判をしているはずだ。

とすると、サヨクの質向上のためにこのようなありがたいご批判をしてくださっている一方、ウヨクの質は上がらなくても良いと思っているということだろうか。

それとも、ウヨクがサヨクと同じような「危うさ」を持っていることに気づいておられないのだろうか。

 

理想を言えば、右派・保守・改憲派右派・保守・改憲派の問題点を、左派・リベラル・護憲派左派・リベラル・護憲派の問題点を、まず自己反省し、その上で建設的な議論をするのが望ましいだろう。

ところが、右派・保守・改憲派の多くは、左派・リベラル・護憲派の問題点を声高に主張するだけで、同じような問題点を持つ自己への反省がない。逆に、左派・リベラル・護憲派の多くは、右派・保守・改憲派の問題点を声高に主張するだけで、同じような問題点を持つ自己への反省がない

だから、いつまで経っても目を覆いたくなるような中傷合戦ばかりになるのだ。

 

山本氏ほどの論客が、もし右派・保守・改憲派に自己反省を促すようなことを言ったら、いくらか効果があるかもしれない。でも、それをせずに、多くの凡人と同じように、左派・リベラル・護憲派への批判だけに留まった。

 

左派・リベラル・護憲派の皆さん、山本氏に反発するよりも、まず、山本氏の批判をありがたく受け止め、自分たちの言説や運動の質の向上に努めようじゃないか。

日本共産党の伸び・・・しかし・・・?

安保法制の議論が始まってからの志位氏の活躍は確かに目覚しいものがある。

今までの共産党と異なり、他党との共闘を含めた柔軟な路線変更まで視野に入れた言動が目立っている。

それが共産党にとってプラスに働くかマイナスに働くかはわからない。

ただ、

政治意識月例調査 - 2015年 | NHK放送文化研究所

などを見れば、大まかに言えば政党としての支持率はそれなりに上がっていて、維新分裂後の情勢を考えると、自民・民主に次ぐ第3の政党になる可能性が大いにある。

 

私自身は、どうせ「サヨク」呼ばわりされる立場であり、左派政党が伸びること自体は別に構わない。

しかし、ここまで左右の溝が深まった中で、共産党がもしも大いに躍進することになったら、それは却っておかしなことを引き起こすかもしれない、ということも言っておきたい。

 

共産党の躍進」に危惧を抱く人が多くなれば、保守層は大いにまとまってこれに対処しようとするだろう。

ちょうど、かつて右派社会党左派社会党とが合併して大政党になったのを受けて、自由党民主党が合併して自由民主党が出来たことを思い出せばいい。

自民党に加えて、維新や民主右派などによるもうひとつの巨大保守政党が生まれ、完全に保守2大政党制の時代がやってくる可能性なども考えなくてはいけない。

 

もっと悪いことを想像するなら、ナチスの前例を考えてみればいい。共産党が伸びてくる中で、それに危機感を抱く資本家たちはナチスに投票し、ナチスの独裁を結果的に生んだのだった。

日本でだって、共産党があまり伸びると、それに危機感を持つ側からの支持により、某民族の排斥や左翼への強硬姿勢を見せる右派が伸びてくる可能性は充分にある。それがどの政党か、あるいは新たな政党かはわからないが。

 

つまり、仮に今度の選挙で共産党議席を伸ばすことがあったら、護憲・左翼・リベラルは、それを喜んではいけない、ということだ。むしろ、もっと恐ろしいことが起こるかもしれないということまで想定して次の手を打たなければいけないのだ。

吉野作造「対外的良心の発揮」に学ぶ

対外的良心の発揮」というのは、『中央公論』1919年4月号に吉野作造が載せた文章である。

三・一独立運動に対して日本国内の世論があまりに朝鮮人への「良心」に欠けたものである、自己の反省がない、ということを述べたものである。

この論については、吉野作造の限界、民本主義の限界を指摘することも可能かもしれない。

しかし、とりわけ注意したいのは、以下の部分である。

 

一口にして言へば今度の朝鮮暴動の問題に就ても国民のどの部分にも「自己の反省」が無い。凡そ自己に対して反対の運動の起つた時、之を根本的に解決するの第一歩は自己の反省でなければならない。仮令自分に過ち無しとの確信あるも、少くとも他から誤解せられたと言ふ事実に就ては何等か自から反省する丈けのものはある。誤解せらるべき何等の欠点も無かつた、斯くても鮮人が我に反抗すると言ふなら、併合の事実其物、同化政策其物に就て更に深く考ふべき点は無いだらうか。

 

「自己に対して反発する運動があったら、それを根本的に解決するのは自己の反省だ」という。

1対1の人間関係であれば、経験上当たり前のことだ。それが、国対国、民族対民族になると、そんな簡単なことがわからなくなるから不思議である。

「自分に過ちが無いなら、相手から誤解されたという意味で反省しなければならない」という。

これも、1対1の人間関係であれば、経験上当たり前のことだろう。

さらに、「誤解されるような欠点もなかった、というのであれば、根本的な問題を考えるべきだ」という。

 

さて、そういったことは、1対1の人間関係や、国対国、民族対民族、といった対立に限られるものではない。もっと一般化できるものではないだろうか。

端的に言えば、安保法制をめぐる賛成派と反対派の対立も、そう見えはしなかっただろうか。

とりわけ、強硬的な賛成派と、強硬的な反対派の対立のことだ。

 

強硬的な賛成派に「自己の反省」が無いことは、「リベサヨ」「護憲」の私としてはどうでもいいことだ。自己反省なく勝手にやってくれればいい。

 

強硬的な反対派に「自己の反省」が無いことは、私にとっては非常に問題だ。

少ししか広まらなかった、反発も買った、という現実をまず見据えなさい。

そして、それが何故なのかを、「政府のせい」「マスコミのせい」「ネットのせい」と言い張るのではなく、「自己の反省」から考えなさい。

自分たちの言説に、間違ったところ、論理の飛躍、非現実的な理想論、危機の扇動、誹謗中傷、そんなものはなかったのか。

自分たちの言説に、誤解を招くような表現、理解されにくいような表現、反発を買いそうな上から目線の表現、そんなものはなかったのか。

もし、そんなものは何も無いのに、あんなに広まらなかったとするなら、根本的に言説を引き下げたほうがいい。

私は、それを望まない。上記のような問題点は、いくつもあると思っている。

「#拉致被害者全員奪還」のタグ

毎週日曜日20時から23時に、Twitter上で「#拉致被害者全員奪還」のタグをつけてツイートするデモが行われている。

 

北朝鮮による拉致は重大な犯罪であり、被害者の帰還というのは、日本国民どうのこうの以前に、人として願う気持ちのよくわかるものである。

しかし、Twitter上での投稿を見ていると、朝鮮人排斥、朝鮮人差別に満ち溢れた投稿とともにこのタグが用いられているパターンがかなり多い。

朝鮮人に対して暴言を吐いて差別して排斥すれば、この問題は解決に向かうのだろうか。これは、「解決のために圧力をかける」(それは、賛否はともかくとして、解決のための一手段としてありうるかもしれないことである)こととは違う。

善意でこのタグを用いている人たちもいる中で、悪意でこのタグを用いている人たちがいることが、非常に残念でならない。拉致被害者を救いたい、と思う気持ちがあるなら、その気持ちを持つ人をもっと増やすような投稿をすればいいのだ。過激なヘイトスピーチ的投稿によってその気持ちが広まるとでも勘違いしているのだろうか。それとも、正義面して朝鮮人や左翼を叩いて、ストレス解消でもしているのだろうか。

 

私が言えることは、ただひとつ。

世界中の拉致・誘拐の被害者たち、望まざる場所に連れて行かれて苦しんでいる人たちが、望む場所に戻れることを祈るばかりである。

#拉致被害者全員帰還

「新9条論」は好手か悪手か〜妥協するなら「勝負手」を〜

www.tokyo-np.co.jp

 

これに対して、改憲派護憲派それぞれからすでに様々な意見が出て、活発な議論となっている。

 

反対意見として鋭いのが、以下のブログである。

澤藤統一郎の憲法日記 » 「新九条論」は連帯への配慮を欠いた提言として有害である

「新9条論」は危険な悪手 - 読む・考える・書く

敵に塩なのか「新9条」論議: 定年オジサンのつぶやき

「新9条論」にきっぱりと反対する|AFTER THE GOLD RUSH

脱原発・NO NUKES、反戦平和、護憲、統一戦線 東京新聞:「平和のための新9条論」、または新9条論による無意識の「梯子外し」について

他にもまだあるだろう。

 

いくつかのブログでも言われていることだが、日本国憲法に掲げられる平和主義的要素、前文や9条の精神を70年にもわたって守ってきたことに重みがあり、そこを崩すのはあまりに大きな意味を持ってしまう。

70年間守ってきたことだから、もっと守らなければ、という意識も生まれてきたのだろう。「個別的自衛権は認めても、集団的自衛権は・・・」などという、必ずしも論理的でない世論は、その感情から生まれてきているのだ。それが、新たな平和条項ができたとして、どれほどの国民が、それを「守らなければ」と思うだろうか。どれほど「ありがたみ」があるだろうか。

そもそも、集団的自衛権の行使まで認めて、9条を骨抜きにしよう、違憲の疑いがあっても無理に通そう、という安倍政権の行いについて、リベラル系の学者たちや、SEALDsの学生たちを始めとする多くの人々が、あれだけ声高に非難しても、半数近くの国民は安倍政権支持なのだ。その民意の現状をどう思うか?

70年間守ってきた9条ですら、もう別に守らなくてもいい、という国民が増えているのだ。新たな9条を作ったところで、集団的自衛権を行使しよう、「普通の国」になろう、という主張の波に勝てる見込みは、もっと薄い。

 

どうせ「新9条論」を打ち出すなら、もっと危険に踏み込んだ「勝負手」にするべきだ。虎穴に入らずんば虎子を得ず。

この際、集団的自衛権を認める改憲をして、さらには「自衛軍」の設置まで認めて、それとセットで、

・安全保障についての現実的な方策

・世界で最も「暴走」や「捕虜虐待」「戦争犯罪」の危険性の少ない「自衛軍」を作るための具体的な方策

まで盛り込んだ法案まで、先手を打って出せばいい。

 

自分で言っておいておかしいかもしれないが、これは本当に危うい作戦である。

しかし、「9条を守らない」「個別的自衛権は容認しよう」という妥協は、実利の取れる妥協ではない。危うい状況を作って、実利はほとんど産まない、意味のない妥協だ。もし妥協をするのであれば、たとえもっと危うくても、実利の取れる妥協でなければならない

実利とは、再三このブログでも言及していることだが、改憲or護憲で悩んでいる層」「ギリギリ改憲の層」に振り向いてもらえる、理解してもらえる、という実利である。妥協するなら、今はもしかしたら消極的に安倍政権を支持しているかもしれないその層を、切り崩せる妥協でなければならない。彼らを味方につけ、本当の戦前回帰的な右翼を少数派に貶め、議論の「蚊帳の外」にできるほどの妥協でなければならない。

改憲or護憲で悩んでいる層」「ギリギリ改憲の層」の悩みの種は、安全保障への危機感と、リベラル・左翼・護憲派の頑なな主張である。9条について妥協して安倍政権と闘おうというのなら、思い切った妥協をして、安全保障について、安倍政権よりも具体的かつ現実的な案を出せばいい(理想的な案ではない)。「悩んでいる層」「ギリギリ改憲の層」がいかに日本の行く末を案じ、多くを学び、頭を痛めているかを考え、誠意を持って歩み寄ればいい。言うまでもないことだが、社会の行く末を真摯に考え、悩んでいるのは、護憲派だけではないのだ。

その一方で、戦前・戦中の反省に基づく平和主義の精神は断固捨ててはいけない。「自衛軍」を持つなら、世界一、暴走・戦争犯罪などのリスクの少ない「自衛軍」を作ってみせればいい。かつての最大の過ちは、「軍部の暴走を許したこと」「捕虜の虐待をはじめ、多くの戦争犯罪を犯してしまったこと」だ。その点への反省というところだけは妥協できない。

 

偉そうなことを言っているが、私はその「勝負手」の具体案をまだ持っていない。

これから考えていきたい。