吉野作造「対外的良心の発揮」に学ぶ
「対外的良心の発揮」というのは、『中央公論』1919年4月号に吉野作造が載せた文章である。
三・一独立運動に対して日本国内の世論があまりに朝鮮人への「良心」に欠けたものである、自己の反省がない、ということを述べたものである。
この論については、吉野作造の限界、民本主義の限界を指摘することも可能かもしれない。
しかし、とりわけ注意したいのは、以下の部分である。
一口にして言へば今度の朝鮮暴動の問題に就ても国民のどの部分にも「自己の反省」が無い。凡そ自己に対して反対の運動の起つた時、之を根本的に解決するの第一歩は自己の反省でなければならない。仮令自分に過ち無しとの確信あるも、少くとも他から誤解せられたと言ふ事実に就ては何等か自から反省する丈けのものはある。誤解せらるべき何等の欠点も無かつた、斯くても鮮人が我に反抗すると言ふなら、併合の事実其物、同化政策其物に就て更に深く考ふべき点は無いだらうか。
「自己に対して反発する運動があったら、それを根本的に解決するのは自己の反省だ」という。
1対1の人間関係であれば、経験上当たり前のことだ。それが、国対国、民族対民族になると、そんな簡単なことがわからなくなるから不思議である。
「自分に過ちが無いなら、相手から誤解されたという意味で反省しなければならない」という。
これも、1対1の人間関係であれば、経験上当たり前のことだろう。
さらに、「誤解されるような欠点もなかった、というのであれば、根本的な問題を考えるべきだ」という。
さて、そういったことは、1対1の人間関係や、国対国、民族対民族、といった対立に限られるものではない。もっと一般化できるものではないだろうか。
端的に言えば、安保法制をめぐる賛成派と反対派の対立も、そう見えはしなかっただろうか。
とりわけ、強硬的な賛成派と、強硬的な反対派の対立のことだ。
強硬的な賛成派に「自己の反省」が無いことは、「リベサヨ」「護憲」の私としてはどうでもいいことだ。自己反省なく勝手にやってくれればいい。
強硬的な反対派に「自己の反省」が無いことは、私にとっては非常に問題だ。
少ししか広まらなかった、反発も買った、という現実をまず見据えなさい。
そして、それが何故なのかを、「政府のせい」「マスコミのせい」「ネットのせい」と言い張るのではなく、「自己の反省」から考えなさい。
自分たちの言説に、間違ったところ、論理の飛躍、非現実的な理想論、危機の扇動、誹謗中傷、そんなものはなかったのか。
自分たちの言説に、誤解を招くような表現、理解されにくいような表現、反発を買いそうな上から目線の表現、そんなものはなかったのか。
もし、そんなものは何も無いのに、あんなに広まらなかったとするなら、根本的に言説を引き下げたほうがいい。
私は、それを望まない。上記のような問題点は、いくつもあると思っている。