改憲のための署名、という奇妙さ
この日本会議系の団体による署名が、500万近く集まっているらしい。
こんなツイートを見かけた。
日本会議は憲法改正の国民投票早期実現を呼びかけた署名活動に445万人の署名を集めた。さらに来夏の参院選を念頭に、47都道府県に「県民の会」を発足させ、改憲発議に必要な衆参で3分の2の国会勢力を獲得しようと大衆的な活動を強めている。
— かまやん (スイミー) (@kama_yam) 2015, 12月 7
いわゆる「改憲派」の人々について、不思議なことは、「どのような改憲を望んでいるのか?」ということである。
それとも「改憲」そのものが目的だとしたら?とても滑稽な話だ。
「あの憲法はGHQから押し付けられたものだから変えるのだ」という、戦勝国アメリカへのアンチテーゼに基づいて改憲を主張するのは構わないが、肝心なのは内容ではないのか。
それとも、自分が望まない内容であっても、改憲されればいいのか?
たとえ新憲法のせいで、現行の日本国憲法下の社会よりもマイナス面の大きい社会になったとしても、自主憲法ならばその方が良いのか?
それが嫌なら、変えるか変えないか以前に、まずは内容からではないのか?
護憲派はその点はわかりやすい。今の憲法の内容を支持している、ということだから。
内容が素晴らしいと言って積極的に支持する人もいるだろう。
自民党の草案よりはマシ、とか、好きじゃないけど変えるリスクは取りたくない、とか、消極的な形での支持者もいるだろう。
いずれにしても、内容支持だ。その判断が正しいのか正しくないのかは別として、意味はわかる。
改憲、という一点で署名を集める、というのはそういう意味で滑稽なことである。
その500万近くの人々は、思い思いの改憲案を持っているか、あるいは、改憲案を持たずに改憲を支持しているのだ。護憲派が支持する内容が1通りしかないのに対して、改憲派は無数の異なる内容を含んでいるのだ。
であるならば、いったい、「改憲派」とは何なのか?
この運動が功を奏して自主憲法が制定された暁には、かつて、何だかよくわからないけれど大日本帝国憲法が発布されて喜んでいた、あの時の臣民たちが復活するのだろうか。
自主憲法ができた、内容はともかく嬉しい、という新臣民が誕生するのだろうか。
使い古された言葉だが、最後に引用しておきたい。
「歴史は繰り返す。1度目は悲劇として、2度目は喜劇として」