「十七条憲法」の精神はその後どうなったのか?
※以前の記事「リベラル・護憲・左派が抑えるべき歴史上の天王山 - 改憲vs護憲を超えて」に関連して
「日本 和 精神」などのキーワードでGoogle検索すればわかるが、日本には古来からこの「和の精神」があって、それが素晴らしいとか、それがどうだとか、いろいろな意見が出ている。
その際に多くの場合引き合いに出されるのが、この「十七条憲法」であるのは言うまでもない。
有名な保守論客の櫻井よしこ氏は、ご自身のブログで「 混沌たる世界、戦略は聖徳太子に学べ 」と題して、次のように述べている(以下、以前の記事と重なるが、ブログより引用)。
「日本が世界に示し得る価値観は7世紀の聖徳太子の時代に遡れば明確であろう。太子の外交と治政を知ることで日本の真髄も感じとれる。歴史を辿れば、十七条の憲法で目指した価値観が約1260年後の明治政府樹立時に、五箇条の御誓文として蘇ったことにも気づくだろう。」
「十七条の憲法と五箇条の御誓文の精神がピタリと重なることは、十七条の憲法に込められた価値観が約1260年間、日本国統治の基本となっていたことを示している。その価値観は、明治維新から78年後の昭和21(1946)年1月1日に、三度、鮮やかに登場する。連合国軍総司令部(GHQ)の占領下、厳しい検閲制度ゆえに自由な発言が許されなかった状況の下、昭和天皇が新年の御詔勅の冒頭、五箇条の御誓文全文を読み上げられたのだ。」
1946年1月1日の「御詔勅」とは、一般には「人間宣言」という誤解を招くタイトルで言及されることの多い昭和天皇の詔のことである。その詔は確かに神格化の否定という要素を含むものであったが、それ以上に、冒頭に彼が「五箇条の御誓文」を読み上げたことの意味は大きい。新たな日本が出発するにあたって、その精神に立ち返ろう、というものである。
その「五箇条の御誓文」とは、1868年に明治天皇が天地神明に対して誓った政府の方針であるが、内容は以下の通りである。
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
さて、櫻井氏の指摘するように、これは「十七条憲法」の精神と「ピタリと重なる」ものであろうか。
そんなことはわかるはずはない。櫻井氏がいかに碩学で賢者であろうと、史料の少ない7世紀前半に書かれた「十七条憲法」の精神を正確に知ることは不可能であり、それが由利公正・福岡孝弟・木戸孝允の手を経て明治天皇から発せられた「五箇条の御誓文」の精神と「ピタリと重なる」なんて、証明することは不可能である。
櫻井氏による「十七条憲法」の精神についての想像と、櫻井氏による「五箇条の御誓文」の精神の想像とが、偶然ピタリと重なった、くらいに思っておけば良いだろう。
さて、櫻井氏は、「五箇条の御誓文」と「十七条憲法」の精神が重なるとのご自身の予想を前提として、「十七条の憲法で目指した価値観が約1260年後の明治政府樹立時に、五箇条の御誓文として蘇った」と述べている。ところが、そのことが「十七条の憲法に込められた価値観が約1260年間、日本国統治の基本となっていた」ことを示すのだ、と、矛盾することを述べている。
「蘇った」ということは、蘇る前には死んでいた、ということになる。
「十七条の憲法に込められた価値観が約1260年間、日本国統治の基本となっていた」のであれば、それは「蘇った」とは言わない。
氏の言っていることは明らかに矛盾しているのだ。もっとも、誰しも、書き間違えることはあるだろうから、揚げ足をとるのはやめておこう。
では、「1260年間保たれた」「五箇条の御誓文で蘇った」どちらの解釈が正しいのか。あるいは、どちらも間違っているのか(「五箇条の御誓文」と「十七条憲法」の精神が重ならないのであれば、どちらも間違っていることになる)。
もし「十七条憲法」が1260年もの間「日本国統治の基本」であったなら、1260年間の間に、少しくらい、何らかの形でその片鱗が残っていてほしいものである。少なくとも、「十七条憲法」が1260年もの間「日本国統治の基本」であった、というのであれば、そのような証拠を見せてほしい。
「十七条憲法」の精神を確認するような為政者の発言であったり、「十七条憲法」の精神に違反するような不埒な為政者に対する非難であったり。少しくらい日本の歴史を知っていれば、わかるだろう。その1260年間に日本に現れた為政者の中に、「十七条憲法」の精神に則っているとは言い難い人物も大勢いたことは。
さて、「十七条憲法」の精神は、制定後どのように引き継がれたのか、あるいは忘れられたのか。
とくにこれに関して研究書などを読んでいないので、管見の限り、という話になるが、中世までの文献にあたると、
・『日本書紀』では全文が引用されている
・『日本霊異記』に聖徳太子の話が載り、冠位制定などの事績がいくつか書かれるが、憲法について言及なし
・『弘仁格』の序文には、初めての法、として言及あり
・「六国史」には、『日本書紀』に全文が引用されている以外は、憲法についての言及は見えない
・平安中期までの聖徳太子関連の史料をみると、『上宮聖徳法王帝説』『上宮聖徳太子傳補闕記』には言及あり。『七代記』『聖徳太子伝暦』には全文の記載あり
・『愚管抄』で聖徳太子のことは多く書かれるが、憲法について直接の言及はなし。ただし、仏法と王法についての慈円の考えがここで記されていて、憲法が念頭に置かれていた可能性はある
・『神皇正統記』には言及あり
といった感じである。
本当に7世紀初頭の推古朝に「十七条憲法」が制定されたとして、それがどれだけ重んじられたのか、というのを推し量るのは難しい。しかし、8世紀初頭に成立した『日本書紀』に全文が載る以上は、少なくとも8世紀初頭の時点では重んじられていたのではないか、と想像できる。壬申の乱などの争乱があった後だからこそ、「和」を大切にしよう、という考えも出てきたのかもしれない。個人的には、権力者として知られる藤原不比等もあまり専制的なイメージはないように思えている。
その後はどうだろうか。
「十七条憲法」の精神が大切にされ続けていたというのであれば、長屋王の変、橘奈良麻呂の乱、恵美押勝の乱、藤原種継暗殺事件など、「和」からは程遠い陰惨な事件が起こるたびに、この憲法を振り返った詔などが出てくれると、なるほど、十七条憲法の精神は大切にされてきたのだな、と思えるのだが、今のところ見つけられていない。
つまり、平安時代までにおける日本の政治において、「十七条憲法」の精神が重んじられてきた、と示せる証拠は見つからないのである。
ところが、鎌倉時代に入って様子が変わる。武家政権の側から、「17」という数字にこだわった法令が出るからである。ちなみに、「禁中並公家諸法度」も17条だ。
そして、51条の「御成敗式目」を制定した北条泰時については、連署・評定衆の設置に見られるように、専制的でない政治志向を見せた人物のようなイメージがある。
こういった現象の背景には、「中世太子伝」という言葉もあるが、中世に入ってからの聖徳太子信仰の隆盛というものがあるだろう。
・・・結論を出すのは難しい。
「十七条憲法」からの「1260年間」、その精神に基づいて日本が統治されていた、ということを証明することはできないだろう。
かといって、1260年間にわたってそれが完全に忘れられていたわけでもない。
聖徳太子信仰の影響のもとに、時折ふと思い出される程度、というくらいに捉えておくのが妥当なのではないか、と思っている。