改憲vs護憲を超えて

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「十七条憲法」を精読する・4〜「和」と「論」を結びつける第十条の重要性〜

※前の記事「「十七条憲法」を精読する・3〜君主たる道、為政者たる道としての「和の精神」〜」の続き

 

最初も大切だが、最後も大切なのではないか、と思っている。

第一条は有名だが、第十七条はそれに比べて扱いが低いように思う。書き下しは次のような感じである。

 

「十七に曰く、それ事は独断すべからず。必ず衆と論ふべし。少事は是軽し。必ずしも衆とすべからず。ただし大事を論ふに逮びては、若しは失有らむことを疑ふ。故、衆と相弁ふるときは、辞すなわち理を得むと。」

 

意味は以下のような感じになるだろう。

「物事を独断してはならない。必ず多くの人たちと論じるべきだ。小事であれば軽いことなので必ずしも論じなくてもいい。しかし、大事を論じる時には、間違いが起こることも疑われる。よって、多くの人たちと検討する時は、理にかなった結論を得るだろう」

 

最後の締めくくりが、第一条の「上和ぎ下睦びて、事を論ふことに諧ふときは、事理自づからに通ふ」に似ていることに気をつけたい。第一条で「和の精神」を説いて「和→論」という方向性を見せたのに対して、最後の第十七条で「論の精神」を説いて「和→論」という方向性を締めくくったのである。

 

さて、この条文には主語がない。独断してはならない、というのは、誰が、なのであろうか。

第一条にも主語がなかったことと、第一条と第十七条とが結びついていることとを重ね合わせて考えれば、上も下も、つまり、君主も宰相も臣下も、ということになるだろう。私はそのように解釈している。

崇峻天皇の専制志向への反省、ということを何となく思っているのだが、その辺りはとくに実証があるわけではない。

 

論じる際の精神について述べた条文もある。第十条である。

 

「十に曰く、忿を絶ち瞋を棄てて、人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り、心各執有り。彼是なれば我は非なり、我是なれば彼は非なり。我必ず聖に非ず、彼必ず愚に非ず。共に凡夫ならくのみ。是非の理、詎か能く定むべけむ。相共に賢愚なること、鐶の端なきが如し。是を以て、彼人瞋ると雖も、還りて我が失を恐れよ、我独り得たりと雖も、衆に従ひて同じく挙へと」 

 

意味は大まかに言えば、

「人と意見が違うことを怒ってはならない。人には皆心があって、心には必ず執着がある。相手と自分とでは正しいと思うことが違う。自分は聖人ではないし、相手は愚人ではない。共に凡夫だというだけである。物事の是非を誰がきちんと決められようか。お互いにある時は賢く、ある時は愚かであるというのは、リングのようなものである。よって、相手が怒っていたら、自らが間違いであるという恐れを持て。自分だけが正しいと思っても、多数の人に従え」

となるだろう。

 

「失」を恐れる、という精神については第十七条に通じるものがある。誰も彼も自分も共に「凡夫」である、というのは仏教的な発想であろう。

 

この条文があるからこそ、「和」を説く第一条と、「論」を説く第十七条とが結びつくのである。

ここで書かれているのは「論」じる時の姿勢であって、「和の精神を持って論じる」とはまさにこういうことなのではないだろうか。

この第十条があることによって、「和」が単なる同調圧力・付和雷同や、滅私奉公にならないし、「論」が派閥対立の原因ともならないのである。

理想論ではあるかもしれないが、「和」と「論」とを「共に凡夫」という精神で結びつけるのが第十条なのである。

 

この精神は、安保法制をめぐる議論で見られた多くの右派と左派の態度とは相反するものである。相手がバカだと決めつけ、自分の意見に間違いがないと思い込んで聞く耳を持たなかった賛成派・反対派のいかに多かったことか。

 

もし新憲法に「和」の精神を盛り込みたいのであれば、「十七条憲法」が「和」から「論」を導き出したことを踏まえ、「論じる」ことの大切さまで入れなければ、都合の良いところだけを書き抜いたとの非難を受けても仕方ないだろう。

そして、その「論の精神」をきちんと踏まえなければ、「十七条憲法」の精神を受け継ぐことはできない。

「十七条憲法」は素晴らしかった、これこそ見習い引き継ぐべき徳性だ、と主張するのであれば、「和」の第一条と「論」の第十七条とを結びつけるこの第十条をきちんと踏まえなければならない。

(続く)