改憲vs護憲を超えて

憲法改正の流れが現実的になった時に、建設的な議論ができますように

「十七条憲法」を精読する・3〜君主たる道、為政者たる道としての「和の精神」〜

※前の記事「「十七条憲法」を精読する・2〜第十五条から読み解く「和の精神」〜」からの続き

 

「十七条憲法」は、教科書的な説明では、仏教を守ることの大切さや、臣下としての道を説いたものである。

しかし、前の記事でも書いたように、実は、君主たる道を説いている内容が多いのだ。第三条・第五条・第八条・第十一条・第十二条・十三条第十四条・第十五条などは、明らかに臣下としての道のみを説くものであるが、第一条は既に述べたように「上」「下」の双方に対する戒めだ。

第一条以外には、

・第四条は臣下に「礼」の大切さを説く内容であるが、「上」が礼を欠くとダメだ、とも言っている

・第六条は懲悪・勧善を説く内容で、佞臣の非難をしている。そういう臣下であってはダメだ、という内容に読み取れる一方、そういう臣下は大乱のもとだから退けよ、と君主に説いているとも読める

・第七条は、臣下がきちんと自分自身の任務をこなすことを説く内容であるが、最後に「古の聖王は・・・」と言って、君主たる者の人材登用についても説いている

・第二条・第九条・第十条・第十六条・第十七条は主語なし。君臣ともに、と読めるか(第九条は臣下のみを対象とした内容である可能性が高いが)

といったところに、君主たる道が説かれていると解釈できる。

第一条の「和」、第四条の「礼」については、上下ともに大切にせよ、というのが「十七条憲法」のスタンスである。また、第二条の仏・法・僧に対する尊崇も、上下問わない内容なのである。

 

つまり、この「十七条憲法」は、推古天皇や、その後の天皇たちへのメッセージでもあるのだ。

 

これもやはり、反省を踏まえてのことなのではないだろうか。

崇峻天皇」という反省である。

蘇我馬子による崇峻天皇暗殺については、蘇我氏専横の最たる事例のように説かれることがあるが、実際のところ、その後の蘇我馬子の行動を見ればわかる通り、馬子側の人間がそれなりに多く、当時の王族・群臣の崇峻天皇への反発が強かった可能性を考えることができる。

なぜ崇峻天皇蘇我馬子を殺したいと言ったのか、なぜ逆に蘇我馬子崇峻天皇を殺害し、推古天皇・厩戸王との協調体制を築け、それが安定したのか。そのあたりのことを考えれば、「蘇我氏専横」の一言で片付けられる類のものではないことはわかるだろう。

崇峻天皇の君主としての失敗があったからこそ、君主たる者はどうあるべきか、と説く必要があり、推古天皇もそれを受け入れたのではないだろうか。

 

さて、そこで再び第一条に戻ってみよう。

 

「一に曰く、和を以て貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ。人皆党有り、また達る者少なし。是を以て、或いは君父に順はず、乍いは隣里に違ふ。然れども、上和ぎ下睦びて、事を論ふことに諧ふときは、事理自づからに通ふ。何事か成らざらむと」

 

最初の文章については、『論語』や『礼記』からの影響が指摘されている。そのあたりについては、このブログ(冠婚葬祭と『礼記』。 | 人生朝露 - 楽天ブログ)などで詳しく述べられており、参考にしていただきたい。

そこで指摘されているように、『論語』では、「和」は「先王の道」であったが、和だ和だと言っても、礼がないと和にならない、ということが書かれている。「十七条憲法」も最初に「和」を出してくるが、第四条で上下ともに「礼」がないとダメだと言っている。

上のブログで、より「十七条憲法」に近い、とされている『礼記』の該当箇所では、「忠信之美、優游之法、舉賢而容眾、毀方而瓦合」という形で「和」が説明され、これが君子の寛容さである、という。

このことと、第十五条(および『韓非子』)とを合わせて考えれば、「上和ぎ下睦びて」というのは、「君たるものは寛容の精神で臨め、臣たるものは私心を優先するな」という解釈になるのではないかと思われる。

それをもう少し深めれば、結局のところ、君たる者も「私心を優先するな」ということになる。気に入らない臣下がいるからといって殺そうとしてはいけない。崇峻天皇のように、気に入らない蘇我馬子を殺そうとしてはいけないのだ。

では崇峻天皇を殺した側はどうなのか、という反論もあるだろうが、少なくとも崇峻天皇は君主として不適格だった、と、推古・厩戸・馬子たちは考えたのだろう。彼らの定めたらしい「十七条憲法」の精神は、そこに基づいている。

 

どうしても「和の精神」を新憲法に盛り込みたい、というのならば、それも構わない、と私は思っている。なぜなら、この「十七条憲法」が、一般庶民を縛るものではなく、君たる道や、臣下(今で言えば公務員)たる道を説くものであって、大まかに言えば為政者側、国家権力側に対する戒めとして書かれたものであるからである。

しかし、その際には、古代の大王・天皇制において、儒・法 (・道・仏)の思想に基づいて君臣ともに求められたその精神を、どのように現代の国民国家・民主主義・人権思想などに適合するように解釈して適用すればいいのか、と考えなければならない。

 

それについての考察は後に回し、次の記事で、「和」から「論」へ、というところについて述べたい。