改憲vs護憲を超えて

憲法改正の流れが現実的になった時に、建設的な議論ができますように

戦後歴史教育の問題点 (2) 「天皇」を知らない生徒たち〜新たな天皇像の欠如〜

戦後歴史教育の弱点として、皇国史観天皇像に代わる、新たな天皇像を打ち出せていないことが挙げられる。

戦後歴史教育を受けた生徒は、天皇が何者なのかがよくわかっていないのだ。「象徴らしいけど・・・?」「よくわからない偉い人」という印象が残るだけだ。

 

でも、さすがに皇国史観天皇像は克服されたのでは?と思う人は、日本史教科書や日本史資料集の「歴代天皇」「天皇家系図」などを見てみるとよい。特に南北朝あたりを見てはどうか。相変わらず南北朝正閏論争の結果(南朝正統の解釈)を引きずって、南朝天皇だけに歴代の通し番号を振り、北朝天皇にはカッコ付きの番号しか振られていないではないか。「三種の神器」も持ち、正統性に何の曇りもなかったはずの光厳天皇でさえ、後醍醐天皇の意向に従い、相変わらず歴代から外されている。

中には、相変わらず神武天皇からの代数を載せているものもある。もちろん、初期の天皇の史実性が薄いことなどを書いていたりするが、なぜ史実性が薄いのかのしっかりした説明はほとんどない。

 

では、皇国史観天皇像に代わる、戦後の新たな天皇像とは何か。

ここで出てくるのが「象徴」という答えでは、敗戦後の天皇の位置付けの一面しか見ていないことになる。

 

日本国憲法の第1条には、

 

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 

とある。

「象徴」とももちろん書いてあるが、大切なのは、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」というところだ。

つまり、日本国憲法によると、天皇の「象徴」という地位というのは、「日本国民の総意」に基づいた結果として保障されるものである、ということなのである。

言い換えれば、「象徴天皇」というのがどのような存在なのかは、日本国民が意志を持って判断することができるということなのである

ところが、その肝心の日本国民が、天皇をよく知らない。意見を持っていない。それゆえ、今の国民がどのような「総意」を持っているのかも、何が何やらよくわからないものになる。

いや、それがいいのだ、という考え方もあるかもしれない。

しかし、「よく知らない」状態は、「学校では日教組の左翼教師のせいで教えてもらえないけれど、本当は・・・」という囁きによって簡単に洗脳される状況でもある。

 

私が思う「新たな天皇」とは、日本の歴史の中で常に何らかの形で重要な位置付けを保ち続けてきた天皇を、国民がよく知っていて、気軽に論じられる状態である。

天皇って必要だよね」「いや、いらないよ」「やっぱり天皇を元首にしないと」「いや、天皇は我々と同格の国民の一人でいいよ」「公選制にしたら?」「木や金で作ればいい(by高師直)」などと、天皇についての様々な知識を以て国民(もちろん国会議員も含む)が論じられる状況こそが、「新たな天皇像」だと思っている。

 

少なくとも、「象徴」という枠の内部で論じ合う分には、憲法の枠内であるから、かなり自由な議論が可能なはずである。

「象徴」という枠から外れさせよう、という議論の場合は、憲法の改正を伴う主張になるから、憲法遵守義務のある立場からの意見であればいくらかリスキーなものになるかもしれない。

しかし、今のご時世、憲法遵守義務のある立場からも、憲法の改正について様々な形で堂々と論じられるのだから、憲法のもとにいる天皇制について様々な形で堂々と論じられても良いはずだ。それが絶対化・神格化を主張するものであれ、廃止を主張するものであれ。

 

そして、「国民の総意」に基づいて定められるのが象徴天皇制の地位なのだから、少なくとも教育の中で、主権者教育の一環として、天皇の地位についてある程度意見を持って論じられる生徒を育てようとするべきではないだろうか。

天皇がなぜ存在するのか(もちろん賛否どちらも可)、なぜ存続しているのか(もちろん賛否どちらも可)、どのような役割が望ましいのか(もちろん今の役割に対して賛否どちらも可)、といったことを考えるだけの知識と論理を持ってもらうべきなのではないだろうか。

なぜ存在するのか、なぜ存続しているのか、ということについては、日本の過去にその答えはある(ただ一つの答えがあるわけではないが)のだから、少なくともその部分については、他の教科ではなく、歴史教育の中で扱うべきであろう。

 

今の天皇は、地位が定まっていないのだ。「なんとなく象徴」「なんとなく偉い人」でしかない。これが永遠に続くとは思わない方がいい。いずれ、「どちらか」に転ぶだろうということを想定した方がいい。

もし、我々護憲・リベラル・左派が、戦前天皇制への逆コースを嫌がるのであれば、教育活動の中でもしっかり天皇を論じられる状況を作るべきだ。

勘違いをしないでほしい。天皇制批判を授業中に生徒に対してぶちまければ済むというものではない。それは意見を持つ力、考える力は生まない。そして、「反日左翼教師が・・・」という批判の格好の対象となり、逆効果となる。

それよりも、洗脳されない状況を作る、ということが肝心なのである。

それこそが、天皇神格化の過去への反省に立った、「新たな天皇像」、つまり、「日本国民の総意に基づく象徴天皇」の姿ではないだろうか。