改憲vs護憲を超えて

憲法改正の流れが現実的になった時に、建設的な議論ができますように

「建国記念の日」についての雑感②反対集会・反対声明の作法について

前の記事で書いたように、

・現行の建国記念の日」が2月11日なのは、ひとつの歴史解釈に基づくものである

・他国の例を見る限り、「建国記念の日」を設定するのもしないのも選択肢として存在する

他国の例を見る限り、設定するにしても、解釈次第で様々な日に設定しうる

他国の例を見る限り、神話にまつわる記念日は非常に珍しい(日本と韓国くらい)

・よって、現行の建国記念の日」にまつわる歴史解釈に対する反対の声を上げることは、別に、日本、というものに対する反発の運動とは限らない

ということが言える。

 

その前提に立った上で、現在行われている反対集会・反対声明は、どうであろうか。

2つの声明の例を以下に提示したい。

 

建国記念の日に関する声明(2011年に書かれた日本歴史学協会の声明)

「建国記念の日」についてどう考える?(2010年に書かれた日本共産党機関紙の記事)

 

大まかに言えば、だいたい現行の「建国記念の日」に対する批判とは、このようなところではないかと思う。

論点としては、大雑把に、

①科学的根拠がない

天皇中心の歴史観を浸透させようとした戦前の歴史への反省がない

の2点である。

 

この2点の内容をみれば、①については全く正しいことであるし、②についてもそのような解釈は可能だろう、と言える。

しかし、彼ら紀元節復活派に対する批判になっているのか、というと、なっていない、と言わざるを得ない。

2月11日を絶対視する人たちだって、本当に紀元前660年の2月11日に神武天皇が即位した、なんて思っているのは、『日本書紀』などをろくに読んだこともないのにそんなことを言っている不勉強な人たちくらいであろう。

そもそも、科学的根拠なんて関係ないのだ。科学的な歴史学の検証に基づいた建国記念日を設けたいなんてそもそも思っていないのだ。

また、天皇中心の歴史観を浸透させたい、と思っていたりするのだから、②も、彼らに対する批判にはなっていない。天皇あっての日本、天皇が元首の日本、それを彼らの多くは求めているのだから。

だから、①②の批判は、彼らに批判として通用する内容ではないのだ。

むしろ、批判の形をとりながら、「彼ら紀元節復活派は、こんな非科学的な迷信で国の成り立ちを説明しようとしているんですよ、戦前への反省もするつもりがないんですよ」というネガティブキャンペーンを、紀元節反対派でも紀元節復活派でもない一般の人たちに向けて行っている、というものなのだ。

 

逆に、前の記事に載せたiRONNAの記事のように、紀元節復活派による紀元節反対派に対する批判も、実は、批判の形をとったネガティブキャンペーンにしかなっていない。

お互いに、議論としては全く噛み合っていないのだ。

 

さて、紀元節反対派でも紀元節復活派でもない一般の人たちが、双方の言い分を公平に聞いたら、どちらに共感する人が多いだろうか。

 

私の予想は、紀元節反対派の不人気、である。

紀元節反対派は、論理・理性を大切にしている。論理的に議論すれば、反対派が負けることはない。

一方、紀元節復活派は、論理・理性なんて大切にしていない。大切にする気などないのだ。心に訴えてくるのだ。日本は素晴らしい、天皇は素晴らしい、と。

今の世の中の流れは、どちらかというと後者だろう。

紀元節に反対している奴は日本が好きじゃないということらしい、のような、論理としては全く成り立っていない(理由はすでに述べた通りだが)言説の方が、わかりやすくて、受け入れやすいではないか。

 

だから、紀元節反対派は、諦めろ、と言っているのではない。

その風潮に対抗するために、我慢して今まで通りの反対集会・反対声明をしろ、と言っているのでもない。

その方法を見直そう、と言っているのである。

 

たとえば、代案を出してみてはどうか。

2月11日では戦前への反省に基づいていない、というのであれば、今の私たちの平和で民主的で豊かな生活の原点はここです、と言って、憲法制定やら何やら別の日を祝うことを提案してみる手もあるだろう。

2月11日では科学的でない、というのであれば、科学的根拠となりうる大宝律令制定の日あたりにしてみてはどうか。元号だって、大宝からは途切れるなく続いているので、悪くないだろう。

あるいは、フランスが革命の日、スペインが「新大陸」発見の日にしているように、日本も特筆すべき記念日を設けても良いかもしれない。

『十七条憲法』や『五箇条の御誓文』の日でも構わない。

解釈を変える、という形で、日本が立憲国家になった日、すなわち、大日本帝国憲法発布を記念する意味で2月11日を顕彰することにしよう、みたいなのも可能かもしれない。

「なるほど!よくわからない神武天皇より、そっちの方がいい!」と思われるような日を提案する、というのはひとつの案である。

 

また、教育現場や草の根レベルでの地道な活動、ということも肝心だろう。

たしかに歴史学者などが、あの日は非科学的だ、などと言っているが、今の一般の人々はそもそも学校の授業で「神武天皇」を習わない。これについては、以前「戦後歴史教育の問題点 (1) 墨で塗られた皇国史観 - 改憲vs護憲を超えて」という記事で書いた。

習っていれば、なるほど、非科学的だ、という印象が先んじていき、「神武天皇の日」に対しても胡散臭い印象を持つこともあるだろうが、習っていなければ、そういう印象も持ちようがない。

上記記事でも書いたように、戦前の歴史観を克服させる歴史教育ができていないのだ。そこから初めてみてはどうか。

 

いずれにせよ、今のままでは、反対派の声は、国民の心には少ししか届かないと思う。

「建国記念の日」についての雑感①2月11日にしなければならない理由はあるか

建国記念の日」のたびに、左右さまざまな意味合いを持つ人々が集会をしたり、声明を発表したりする。

私も、せっかくなので何か書いておきたい。

 

建国記念の日」反対の動きに対しては、例えばこんな反論がある。

 

ironna.jp

 

この論者は、「建国記念の日」や「紀元節」についての歴史を述べた上で、このように言う。

 

そもそも紀元節とは、初代天皇である神武天皇の即位の日。国の成り立ちに思いをはせ祝う日である。いろいろと形は違っても、どの国家にもあってしかるべきものであり、大切にされるべきものだ。

(2016.2.11現在の上記記事より引用)

 

実際に、管見の限り、ほとんどの国家で「国の成り立ちに思いをはせ祝う日」はある。イギリスにはないそうだが。

そして、この論者は、それがGHQの方針や、戦後日本の「左傾」のために否定され続けたことを論じ、ようやく「建国記念の日」が祝日になった後のことが記される。

 

建国記念の日が祝日となった翌年に出された、「紀元節問題」という冊子がある。進歩的知識人らの名前が並ぶ。寄稿文や座談会にはこんな惹句(じゃっく)がついている。「紀元節復活をかちとった右翼は、つぎの計画として明治節明治維新百年-安保危機突破をめざし…」「二月十一日は日本人にとって悪夢再現の日となった。反動政策の環が着々とつながれつつある今日…」。国の成り立ちを祝うことは「右翼」であり「反動」とされている。
(2016.2.11現在の上記記事より引用)

 

言うまでもなく、ここには論理のすり替えがある。とても単純でわかりやすいことなのだが、本人は気付かなかったのだろうか。

その引用に従えば、「進歩的知識人」たちの言説は、「紀元節復活」が「右翼」「反動」だというものであって、「国の成り立ちを祝うこと」が「右翼」「反動」だとは、少なくともこの論者が引用している箇所には書いてない。

 

このように言えば、すぐに次のような反論があるかもしれない。

紀元節以外に、日本という国の成り立ちを祝うべき日がありようがない、と。

 

しかし、残念ながら、「神武天皇」という諡号を贈られた人物は、「日本」という国を知らない。「日本」という国が、その名前で誕生したのは、7世紀以降のことであるということは周知の事実だ。「神武天皇」即位で「日本建国」というのは、歴史解釈の産物なのだ。

もちろん、「神武天皇」という諡号を贈られた人物が、まだ「日本」とは呼ばれていなかった何らかの国において、まだ「天皇」とは言われていなかった何らかの君主の地位についた時点を以って、「それが日本の原型ができた時なのだから、その日に建国を祝おう」という言説があること自体は、別に構わないと思う。それもひとつの解釈だ。

この論者によると、神武即位は「神話」らしいので、史実どうのこうのではなく、その神話に基づいて建国を祝いましょう、という発想になる。それはそれで構わない。それもひとつの解釈だ。

「後に「神武天皇」という諡号を贈られた人物」は、「まだ「日本」とは呼ばれていなかった何らかの国」の、「まだ「天皇」とは言われていなかった何らかの君主」ではあるが、それを今の日本の起源とすることができるのだ、という発想である。『日本書紀』以来、そのような発想のもとでの国家像が歴史の中で連綿と続いてきた事実もあり、それはそれで一理あるものだ。

 

一方、他のどの国にもある「国の成り立ちに思いをはせ祝う日」を見てみると、そのような神話に基づいた記念日を設けているのは、管見の限り、日本以外に、韓国の「開天節」(檀君が建国したという神話に基づく)くらいしか見当たらない。他はだいたい、宗主国から独立した日か、現在の政体になった日を、「国の成り立ちに思いをはせ祝う日」にしている。

アメリカならばイギリスからの独立記念日、ロシアならばソ連から独立した日、フランスならば革命の記念日、イタリアならば共和制になった日、ドイツならば東西統一の日、中国ならば中華人民共和国建国の日、といった感じである。

日本と同じように、王にあたる人物が歴史を持って存在している国で言えば、タイとデンマークは立憲王制への移行をした日、スウェーデンはカルマル同盟から離脱した日、スペインはコロンブスの新大陸発見の日、といった感じである。

いずれも、他の選択肢がなかった、というわけではあるまい。タイだってスウェーデンだってデンマークだってスペインだって、自らの名前を冠する国の王が初めて即位した日にしても良かったのが、あえて立憲制への移行日や、その他の歴史上の特筆すべき日を選んでいるのだ。

日本のように、今の国名を名乗る国が存在しなかった頃に遡って、建国の記念日を設けてもいいはずだ。ロシアならリューリク、フランスならクローヴィス、中国なら始皇帝、イタリアならロムルスの即位の日を、日本の神武天皇のように、「国名や政治体制は違うが、自分の国の原型があの時にできたんだ」と解釈して、建国記念日にしたって良いだろう。でも、それらの国々は、そのような解釈を選ばなかった。

 

逆に言えば、日本も、他の多数の国が設定しているような「普通の」建国記念日を設定することも可能なのだ。

主権回復の日、今の象徴天皇制となった日本国憲法制定の日、立憲政体になった大日本帝国憲法制定の日(これは同じ2月11日だが)、資料上「日本」「天皇」の語を用いたことが確実な初例である大宝律令制定の日、などなど、選択肢は他にいくつもある。他国との比較という意味でいえば、どれを選んでも、不思議でもないし、恥ずかしいことでもない。

つまり、紀元節を持って建国記念の日とするのは、他国の例をみればわかるように、いくつもの選択肢の中のひとつであって、唯一絶対の選択肢ではないのだ。

ようは、今の自分の国をどのように解釈するのか、ということの意見表明なのである。

 

それゆえ、祖国の歴史を鑑みて、他の日を建国記念の日とするべきだ、という運動があってもおかしくないし、それは別に「反日的」なことではない。

むしろ、「日本」「天皇」ではなかった頃の歴史を以て「建国」と考えているということは、「日本」「天皇」という国号・君主号にはあまりこだわりがないのだな、と感じる(それも別に構わないのだが)。

 

もちろん、イギリスのように、建国にまつわる日がない例もある。必ずしも、建国記念日を設けなければならない、というわけではない。

日本は、圧倒的多数派の国々と同じように建国にまつわる祝日を設け、圧倒的多数派の国々とは異なり「神話上の、まだ国号も君主号も現在と同じではなかった頃の」歴史を選んで建国の日としている、というわけだ。

 

さて、それに「反対」することも、すでに述べたように「反日」的なことではないし、「左翼」的でない場合が多いと思っているのだが、その反対運動・反対声明を強めることには、落とし穴があると思っている(続く)。

「安倍談話」と「慰安婦合意」〜スローガンとしての「子や孫に謝罪させない」〜

2015年の歴史認識問題を象徴する、戦後70年の「安倍談話」と、年末の「慰安婦合意」とはひとつの思想で繋がっていた。それは、「子や孫に謝罪させない」というものだ。

 

本来、安倍首相の支持者たちの歴史認識から考えれば、「安倍談話」にしても「慰安婦合意」にしても、受け入れがたい部分があっただろう。特に「慰安婦合意」には、首相支持者からの失望の声も多かった。

ところが、現実問題として、アメリカの意向は無視できない。

また、自民党の利益という面で考えても、「自民党より極右」の政党の躍進が(今のところ)現実的でない日本においては、多少リベラル寄り・ハト派外交の政策を取っても自民党にとっては大丈夫だということ。いや、むしろ、「民主党の実力には疑問だけれど、安倍首相の自民党だと外交がタカ派で心配だな・・・」くらいの感覚で民主党に渋々投票したくらいの層を、自民党への投票に踏み切らせるくらいの「効果」があるかもしれない。

たしかに、「慰安婦合意」には多くの保守派が反発し、もう安倍は支持しない、などと宣っていた。しかし、慰安婦問題は選挙の争点にはならない。慰安婦は大切な問題だろうが、直接国民生活や安全保障に関わることではないからだ。

結局は、他の選択肢がないために、反発した彼らも、渋々自民党に入れるか、もっと「右」寄りの候補に入れて死票を増やすだけであろう。

アメリカの覚えもめでたくなり、韓国からも譲歩を引き出せ、選挙にもプラス。自民党にとって絶妙の選択肢だったのだろう。

 

そういった背景を含めて、首相ご自身の歴史認識子や孫に謝罪させない」の思想で繋いだのが、「安倍談話」から「慰安婦合意」の流れだったと思われる。

 

子や孫に謝罪させない」という言葉は、とても聞こえがいい。批判の余地がないように見える。

しかし、言外に「謝罪すること」がマイナスである、という前提が含まれていることに注意しなければならない。日本が「謝罪させられる」被害者である、という感覚が含まれていることに注意しなければならない。

ここで、被害者意識というものが、ナショナリストにとってはとても有用なものなのである、という事実を思い出さなければならない。

そういう意味で、この言葉には気をつけて接しなくてはならない。

と思う一方で、批判するにもまた難しい問題がある。

 

リベラル・護憲・左派は安倍批判を声高にする。

「安倍談話」も「慰安婦合意」も、リベラル・護憲・左派の立場から、受け入れがたい面が大いにあった。とりわけ後者については、アメリカからの要請のもとで当事者の頭越しに日韓両政府が勝手に決めてしまった、という性格が強い。批判ならいくらでも出来るだろう。また、前者についても、欧米列強の脅威から日露戦争での「勇気づけ」という流れで歴史を振り返り始める、という論法への批判など、論点は多いだろう。

しかし、問題はそこではない。

おそらく日本会議系の多くの人々の思想には合わないような形で、安倍首相が歴史を総括したこと。

このことはとても大きな意義を持つのではないだろうか。 

 

我々リベラル・護憲・左派がいつも声高に主張するような歴史認識〜それはある種の人々から「自虐史観」と非難されるものであるが〜は、90年代以来、衰退の一途をたどっている。

その理由は様々であろうが、「親も戦前・戦中を体験していない」「祖父母でも戦前・戦中を知らない」世代が増えていけば、「なぜ私たちが昔の日本人がやったことまで謝罪しなければならないの?」という心理的反発が増していくのは自然な流れだ。「自由主義史観」や「皇国史観」を標榜する人々の訴えそのものは広く受け入れられない可能性が高いと思っているが、一方、彼らから自虐史観」とレッテルを貼られている我々の側の歴史観も、これから再び隆盛するなんてことはないだろう。

 

「子や孫に謝罪させない」という言葉は、非常に巧妙だ。

自由主義史観」や「皇国史観」にとらわれてはいないが、でもそこまで謝罪したくない、という多くの層のこころを捉える言葉だ。

一方、「安倍談話」では侵略の罪を認めた。

絶妙なバランスだ。

やはりあの戦争は悪かったよね、繰り返したくないよね、でも永遠に謝罪するのはちょっとね・・・、という自然な国民感情から受け入れやすいのだ。

そして、「子や孫に謝罪させない」に対しては反論の仕方が難しい。

理屈をこねて反論することは可能でも、理屈を好まない多くの人たちからは、感情的に、「反論するってことは、永遠に謝罪しろってことか!反日め!売国奴め!」という形で非難され、不利に陥る。

そして、ますます我々リベラル・護憲・左派が反日売国奴であるというネガティブキャンペーンは勢いを増すだろう。

 

何度もいうが、リベラル・護憲・左派が日本社会の多数派となる未来は非常に考えにくい。

二大勢力の一翼となるのだって相当困難だ。

二大勢力からも無視されない程度の存在として生き残れれば御の字だと思っている。

このまま自省なく上から目線での主張を繰り返していれば、それすらできないだろう。

仮に、これからも、二大勢力の一翼で、より右翼的な言説を述べる側が、「安倍談話」「慰安婦合意」程度の歴史認識を示すならば、まだ良いではないか。アメリカからの外圧のような情けない事情であるにせよ、そこで止まるならば、まだマシではないか。

 

さらに言えば、この際、「子や孫に謝罪させない」で良いではないか。

我々リベラル・護憲・左派だって、謝罪したくて仕方ないわけではなかろう。いずれ関係諸国からの信頼を勝ち取って、謝罪しろ賠償しろと言われなくなる方が良いに決まっているだろう。

そのための護憲であり、そのための平和主義運動でもある、とまで言ったら言い過ぎかもしれないが、そういう側面もあるはずだ。

一方的に「もう謝罪しない!日本を悪く言う歴史観は歴史の歪曲、捏造だ!」と言って謝罪をやめることに反対なのであって、「子や孫に謝罪させない」こと自体に反対なのではないはずだ。

 

だから、私は、「安倍談話」「慰安婦合意」について、「子や孫に謝罪させない」というスローガンについて、内容的には賛成しかねる部分があるにせよ、そのようなことを安倍首相が述べる、という社会には反対しない。

「乗客に日本人はいませんでした」

THE YELLOW MONKEYの復活は年明け早々の明るいニュースだった。

新曲の発表もあり、本格的な活動も期待されるところである。

 

私が彼らに出会ったのは比較的遅く、名曲『JAM』からである。

この曲の歌詞には、有名な箇所がある。

 

「外国で飛行機が墜ちました ニュースキャスターは嬉しそうに乗客に日本人はいませんでした

 

というところである。

これは当時、(おそらく本人たちの意図したこととは異なる意味も含めて)大いに話題になった。

 

作詞した吉井和哉氏は別に、ニュースでの飛行機事故の報道の在り方、ナショナリズムの問題などを問うためにこの歌詞を書いたのではないだろう。

まず、『JAM』という曲の歌詞全体をみれば、社会問題を扱う歌でないことは明らかだ。冒頭の「暗い部屋で一人テレビはつけたまま・・・」から始まる心理描写の一環として、「外国で飛行機が墜ちました」がある。この箇所も、やはり心理描写と考えるべきであろう。

乗客に日本人はいませんでした」から「いませんでした」「いませんでした」「僕は何を思えばいいんだろう」などと情熱的に繰り返した後は、「こんな夜は逢いたくて」と続く。

大切なのは、「こんな夜は」であろう。「こんな夜」とは、どんな夜なのか。その「こんな」の内容が、そこまでの歌詞で描かれているのだ。

別に、現実のニュースキャスターは、「乗客に日本人はいませんでした」を「嬉しそうに」なんて言わない。それが「嬉しそうに」聞こえてしまうような、「こんな夜」なのだろう。

・・・と私は解釈している。勝手な解釈であり、違ったら申し訳ない。

 

解釈は解釈として、2番目のサビの、盛り上がるところに、吉井氏はこの有名なフレーズを持ってきた。

当時のインタビューなど読んでいないのでわからないが、おそらく、吉井氏はニュースで飛行機事故の報道を見て、「乗客に日本人はいませんでした」というニュースキャスターのセリフを聞いたことをきっかけに、このフレーズを考えたのではないか、と予想される。

 

私が吉井氏を尊敬するのは、その鋭さだ。

ソロ活動中の『CALIFORNIAN RIDER』という曲では「『ひとりぼっち』の『ぼっち』って何?」と歌っていた。当たり前のように使っている「ひとりぼっち」という言葉に「あれ?」と思ったのだろう。

同じように、当たり前のように聞いてしまう「乗客に日本人はいませんでした」に「あれ?」と思ったのではないか。

 

身の周りの、「当たり前」と思っていたことに対する鋭い感覚。ぜひ、磨いていきたいと思う。

「歯舞読めない」は揚げ足取りか

漢字の読み方についての報道として、

麻生首相(当時)が「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだ

②宮沢経産相(当時)が「川内」を「せんだい」と読んだ

③島尻沖縄北方担当相が「歯舞」を「はぼ」までしか読めなかった

などといったことが取りざたされてきた。

それに対して、マスゴミの揚げ足取りだ、という非難があったりする。

 

どこまでがきちんとした批判で、どこからが揚げ足取りなのか、というのは、結局は個人の感覚なのかもしれないが、その立場に置かれた政治家としての資質に関わるかどうかという観点から見て、私個人としては、

①は揚げ足取り(読み方違いますよ、と指摘すれば良いレベル)

②③は揚げ足取りではない(資質を問うべきレベル)

と思っている。

 

漢字の読み間違いくらい、誰しもある。

私も、読み方、書き方を間違って覚えていて恥ずかしい思いをしたことがあるので、麻生元首相の気持ちはよくわかる。もちろん、それが多すぎると、あまり教養がないのではないか、という疑念が生じで、一国の首相としてやや恥ずかしいかもしれないが、せいぜいそのレベルの話であって、何度も取り上げたり資質を問うたりする必要はないのではないか、と当時は感じたし、今でもそう思っている。

(ただし、ここには若干、私自身が漢字の間違いをしばしば犯すことからの麻生氏への同情・共感も入っているかもしれない)

 

一方、エネルギー問題に取り組むべき経産相が「川内」を「かわうち」と読む、とか、北方領土問題の啓発などに携わるべき沖縄北方担当相が「歯舞」を読めない、とかいうのは、単なる漢字力の低さ、地名を知らない無知さ、などといった問題では済まされない。

原発問題に関心が高ければ「川内原発」を知らないわけがなく、話題にすることがないわけがなく、「かわうち」とは呼びようがない。北方領土問題に関心が高ければ「歯舞群島」を知らないわけがなく、話題にすることがないわけがなく、「はぼ・・・」とはなりようがない。

言うまでもなく「川内(せんだい)」も「歯舞(はぼまい)」も難読地名なので、関心が低ければ、正しく読むのは困難だ。

結局のところ、「川内が読めない」「歯舞が読めない」という批判は、漢字能力の欠如を追及する批判ではなく、関心の低さを追及する批判になる。「未曾有(みぞうゆう)」とは次元が違うのである。

「サヨクは金持ちの道楽」論について

私が以前書いた記事(今、労働問題を争点にしなければならない理由〜「外交右派・経済左派」の脅威〜 - 改憲vs護憲を超えて)が、Twitterで批判的に言及されており、アクセス数が増えていた。

批判的見解をなるべく探そうと試みた中で、とりあえず、最も手厳しいものを挙げると、以下のようなものがある(もちろんTwitterなので下から上に時系列順に並ぶ)。

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まずは批判をありがたく受け止めたい。

 

ここで大切なことは、私のあの記事が、「金持ちの道楽」の象徴であるかのように見られてしまったことだ。

「私は金持ちじゃないし、道楽でなく真剣に考えている」みたいな反論をすることに、全く意味がないことはいうまでもない。

救われなければならない水準の生活をしている人々から見れば、同世代で平均くらいの稼ぎのある私は「金持ち」だ。

私がいくら真剣に考えていると言ったところで、別に、救われなければならない水準の生活をしている人々がこのまま救われなくても、私はこのまま救われ続けているであろう。所詮は暇だからやってるんだろ、と言われたら、それに100%反論できるわけではない(左右見渡して、それができる中流階級の人間がいるのか、疑問ではあるが)。

「お前に労働者が救えるか(救えない)」という批判などは、もちろん腹が立つものではあるが、「金持ちの道楽気分で労働者の味方であるような主張をしている限り、労働者は救われないんだ」という批判だと思えば、その批判の意味がわかるだろう。

 

ただ、私は、政治家になるつもりもなければ、運動家になるつもりもない。生活水準を落として彼らの気持ちから始めよう、という覚悟もない。今携わっている活動については、ここでは一切述べるつもりはないが、少なくともこのブログでは、ただ机上の空論を投げかけるだけに徹するつもりである。

すなわち、労働問題について私が願うのは、

・労働者の人権が守られる社会(ブラック企業撲滅、労働基準法遵守、・・・)

・貧困が今より少ない社会(格差の是正、セーフティネットの改善、・・・)

ということである。

要するに、このことを旗印にできる政党、政権を取ったら上記の社会を作るべく政策を実行できる政党を求める一有権者としてあれこれ言っているのである。

実際に私は貧困者ではない。現在の職場で労働基準法は守られていないが、ブラックと言うほどでもない環境で働いている。そんな人間が、あれこれ理屈をこねてサヨク的言説をここで叫んでも、所詮は「金持ちの道楽」なのだ、と言われるのであれば、「そうですね、すみません」としか言いようがない。

 

ただ、私は、声を大にして言いたいことがある。

 

「金持ちの道楽」だから「左翼は労働者から支持を得られない」というのであれば、おそらく左翼は滅びゆく、という結果が待っているだけだろう。だから、あなた方がそんな左翼を嫌っているのなら、私たち左翼に対して、どうぞ「金持ちの道楽」に徹していてください、それで滅んでください、と言ってくれればいい。

しかし、Twitter上で私のあの記事に言及して批判してくださった方や、多くの「政治右派・経済左派」の人たちを中心とするアンチ左翼の論者たちが、そのような形で左翼の欠点を洗い出して、やや腹が立つ表現が多いものの、建設的に批判してくれている。私たちにとって、なんとありがたいことか。

それならば、批判された私たちリベラル・左翼・護憲が、それにどう答えるか、が肝心なのだ。

残念ながら、これから「リベラル・左翼・護憲」というカテゴリの人間だけで労働者を救える見込みはない。少数派すぎるからだ。

では、「政治右派・経済左派」が「政治右派・経済右派」に単独で打ち勝てるのか。

私はそれも疑問だ。ポピュリズムに強く訴えることで可能になるかもしれないが、その危険性は彼らもよくわかっているだろう。

ならば、労働者を救うためには、その論点においてだけでも、手を携えるしかないのではなかろうか。

もちろん、「リベラル・左翼・護憲」の叫ぶ労働者擁護は、あなた方から見れば、「金持ちの道楽」と言いたくなることかもしれない。しかし、それでも、労働問題を問題として捉え、少しでも良くしようという気持ちの表れである。

まずは、例えば、せめて労働基準法が遵守される日本や、セーフティネットのもっと充実した日本を、ともに作ることから始めてはどうか。

その論点についてであれば、ある程度は共闘可能であろう。

その後で袂を分かって、その他の問題について激論を交わせばいい。

あなた方は私たちのことが嫌いでしょう。それでいい。でも、好き嫌いよりも優先しなければいけないことがある。

どうぞ、私を「金持ちの道楽」と非難してください。所詮、「金持ちの道楽」ですから。でも、「金持ちの道楽」でも、労働問題について同じ方向性を向くことは可能だ、ということを忘れないでほしい。

 

それは、同時にリベラル・左翼・護憲」を標榜する私の同志たちにも言いたいことである。

生き残りたいなら、私たちを「金持ちの道楽」と罵る彼らと手を携えて、まずは労働問題に取り組むことだ。

だって、憲法云々より、安全保障云々より、一番の危急の問題は、労働問題だろう。

北朝鮮の「水爆」実験と護憲・反戦・リベラル派の今後

今回の北朝鮮の水爆実験成功が真実かどうかはまだわからない。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、そうでなかったとしても、いずれそうなるかもしれない。

 

北朝鮮が水爆を製造することができたら、「改憲」「自衛軍創設」そして「核武装」までの流れが見える。

核武装」はともかくとして、改憲」「自衛軍創設」までの流れを止めることは難しいだろう。世論は完全に右傾化する。

 

護憲反戦・リベラル派がここで、どんなに反日売国奴と罵られようと、いよいよ弾圧の憂き目に遭おうと、崇高な気持ちを以て護憲だ非武装だと自説を掲げ続けたら?

それは、とても格好の良いことであるが、それは一種の滅びの美学かもしれない。

私のような妥協派は、滅ぶよりも、妥協してでも生き延びて、少しでもマシな状況を作ることに参画することを望むだろう。今はまだ護憲反戦・リベラル派にもいくらかの支持があるのだから、それを失う前に、ここで強みを見せることが大切なのではないか、などと思っている。

具体的には、以下の3点である。

・アメリカだけではなく、中国・韓国・ロシアとの連携も一層大切になるだろう。ISをめぐるロシアとトルコ、サウジとイランのように、対立関係を孕んだままではどうにもならない。歴史認識問題なども踏まえた協調外交を展開し、北朝鮮が少しでも動きにくい状況を作れるような提言をすること

・たとえ改憲となろうと、自衛軍が創設されようと、過去の歴史の反省を忘れていない内容となるように厳しくチェックすること(つまり、軍部の暴走が未然に防がれていること。捕虜の虐待などの戦争犯罪が非常に起こりにくい体制になっているかをきちんと見極めること)

核武装」だけは防ぐこと。唯一の被爆国であり、核兵器の恐ろしさを最も知っている日本がとうとう核武装に踏み切る、ということになれば、核廃絶はもう無理だろう。それこそ核戦争でも起こらない限り

 

今は、声高に護憲反戦・リベラル派を反日売国奴だと罵る人々は多数派ではない。中間層や無関心層がそういうことを言い出す前に、中間層や無関心層にも訴えかける主張を打ち出さなければならない。