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「建国記念の日」についての雑感①2月11日にしなければならない理由はあるか

建国記念の日」のたびに、左右さまざまな意味合いを持つ人々が集会をしたり、声明を発表したりする。

私も、せっかくなので何か書いておきたい。

 

建国記念の日」反対の動きに対しては、例えばこんな反論がある。

 

ironna.jp

 

この論者は、「建国記念の日」や「紀元節」についての歴史を述べた上で、このように言う。

 

そもそも紀元節とは、初代天皇である神武天皇の即位の日。国の成り立ちに思いをはせ祝う日である。いろいろと形は違っても、どの国家にもあってしかるべきものであり、大切にされるべきものだ。

(2016.2.11現在の上記記事より引用)

 

実際に、管見の限り、ほとんどの国家で「国の成り立ちに思いをはせ祝う日」はある。イギリスにはないそうだが。

そして、この論者は、それがGHQの方針や、戦後日本の「左傾」のために否定され続けたことを論じ、ようやく「建国記念の日」が祝日になった後のことが記される。

 

建国記念の日が祝日となった翌年に出された、「紀元節問題」という冊子がある。進歩的知識人らの名前が並ぶ。寄稿文や座談会にはこんな惹句(じゃっく)がついている。「紀元節復活をかちとった右翼は、つぎの計画として明治節明治維新百年-安保危機突破をめざし…」「二月十一日は日本人にとって悪夢再現の日となった。反動政策の環が着々とつながれつつある今日…」。国の成り立ちを祝うことは「右翼」であり「反動」とされている。
(2016.2.11現在の上記記事より引用)

 

言うまでもなく、ここには論理のすり替えがある。とても単純でわかりやすいことなのだが、本人は気付かなかったのだろうか。

その引用に従えば、「進歩的知識人」たちの言説は、「紀元節復活」が「右翼」「反動」だというものであって、「国の成り立ちを祝うこと」が「右翼」「反動」だとは、少なくともこの論者が引用している箇所には書いてない。

 

このように言えば、すぐに次のような反論があるかもしれない。

紀元節以外に、日本という国の成り立ちを祝うべき日がありようがない、と。

 

しかし、残念ながら、「神武天皇」という諡号を贈られた人物は、「日本」という国を知らない。「日本」という国が、その名前で誕生したのは、7世紀以降のことであるということは周知の事実だ。「神武天皇」即位で「日本建国」というのは、歴史解釈の産物なのだ。

もちろん、「神武天皇」という諡号を贈られた人物が、まだ「日本」とは呼ばれていなかった何らかの国において、まだ「天皇」とは言われていなかった何らかの君主の地位についた時点を以って、「それが日本の原型ができた時なのだから、その日に建国を祝おう」という言説があること自体は、別に構わないと思う。それもひとつの解釈だ。

この論者によると、神武即位は「神話」らしいので、史実どうのこうのではなく、その神話に基づいて建国を祝いましょう、という発想になる。それはそれで構わない。それもひとつの解釈だ。

「後に「神武天皇」という諡号を贈られた人物」は、「まだ「日本」とは呼ばれていなかった何らかの国」の、「まだ「天皇」とは言われていなかった何らかの君主」ではあるが、それを今の日本の起源とすることができるのだ、という発想である。『日本書紀』以来、そのような発想のもとでの国家像が歴史の中で連綿と続いてきた事実もあり、それはそれで一理あるものだ。

 

一方、他のどの国にもある「国の成り立ちに思いをはせ祝う日」を見てみると、そのような神話に基づいた記念日を設けているのは、管見の限り、日本以外に、韓国の「開天節」(檀君が建国したという神話に基づく)くらいしか見当たらない。他はだいたい、宗主国から独立した日か、現在の政体になった日を、「国の成り立ちに思いをはせ祝う日」にしている。

アメリカならばイギリスからの独立記念日、ロシアならばソ連から独立した日、フランスならば革命の記念日、イタリアならば共和制になった日、ドイツならば東西統一の日、中国ならば中華人民共和国建国の日、といった感じである。

日本と同じように、王にあたる人物が歴史を持って存在している国で言えば、タイとデンマークは立憲王制への移行をした日、スウェーデンはカルマル同盟から離脱した日、スペインはコロンブスの新大陸発見の日、といった感じである。

いずれも、他の選択肢がなかった、というわけではあるまい。タイだってスウェーデンだってデンマークだってスペインだって、自らの名前を冠する国の王が初めて即位した日にしても良かったのが、あえて立憲制への移行日や、その他の歴史上の特筆すべき日を選んでいるのだ。

日本のように、今の国名を名乗る国が存在しなかった頃に遡って、建国の記念日を設けてもいいはずだ。ロシアならリューリク、フランスならクローヴィス、中国なら始皇帝、イタリアならロムルスの即位の日を、日本の神武天皇のように、「国名や政治体制は違うが、自分の国の原型があの時にできたんだ」と解釈して、建国記念日にしたって良いだろう。でも、それらの国々は、そのような解釈を選ばなかった。

 

逆に言えば、日本も、他の多数の国が設定しているような「普通の」建国記念日を設定することも可能なのだ。

主権回復の日、今の象徴天皇制となった日本国憲法制定の日、立憲政体になった大日本帝国憲法制定の日(これは同じ2月11日だが)、資料上「日本」「天皇」の語を用いたことが確実な初例である大宝律令制定の日、などなど、選択肢は他にいくつもある。他国との比較という意味でいえば、どれを選んでも、不思議でもないし、恥ずかしいことでもない。

つまり、紀元節を持って建国記念の日とするのは、他国の例をみればわかるように、いくつもの選択肢の中のひとつであって、唯一絶対の選択肢ではないのだ。

ようは、今の自分の国をどのように解釈するのか、ということの意見表明なのである。

 

それゆえ、祖国の歴史を鑑みて、他の日を建国記念の日とするべきだ、という運動があってもおかしくないし、それは別に「反日的」なことではない。

むしろ、「日本」「天皇」ではなかった頃の歴史を以て「建国」と考えているということは、「日本」「天皇」という国号・君主号にはあまりこだわりがないのだな、と感じる(それも別に構わないのだが)。

 

もちろん、イギリスのように、建国にまつわる日がない例もある。必ずしも、建国記念日を設けなければならない、というわけではない。

日本は、圧倒的多数派の国々と同じように建国にまつわる祝日を設け、圧倒的多数派の国々とは異なり「神話上の、まだ国号も君主号も現在と同じではなかった頃の」歴史を選んで建国の日としている、というわけだ。

 

さて、それに「反対」することも、すでに述べたように「反日」的なことではないし、「左翼」的でない場合が多いと思っているのだが、その反対運動・反対声明を強めることには、落とし穴があると思っている(続く)。