改憲vs護憲を超えて

憲法改正の流れが現実的になった時に、建設的な議論ができますように

「建国記念の日」についての雑感②反対集会・反対声明の作法について

前の記事で書いたように、

・現行の建国記念の日」が2月11日なのは、ひとつの歴史解釈に基づくものである

・他国の例を見る限り、「建国記念の日」を設定するのもしないのも選択肢として存在する

他国の例を見る限り、設定するにしても、解釈次第で様々な日に設定しうる

他国の例を見る限り、神話にまつわる記念日は非常に珍しい(日本と韓国くらい)

・よって、現行の建国記念の日」にまつわる歴史解釈に対する反対の声を上げることは、別に、日本、というものに対する反発の運動とは限らない

ということが言える。

 

その前提に立った上で、現在行われている反対集会・反対声明は、どうであろうか。

2つの声明の例を以下に提示したい。

 

建国記念の日に関する声明(2011年に書かれた日本歴史学協会の声明)

「建国記念の日」についてどう考える?(2010年に書かれた日本共産党機関紙の記事)

 

大まかに言えば、だいたい現行の「建国記念の日」に対する批判とは、このようなところではないかと思う。

論点としては、大雑把に、

①科学的根拠がない

天皇中心の歴史観を浸透させようとした戦前の歴史への反省がない

の2点である。

 

この2点の内容をみれば、①については全く正しいことであるし、②についてもそのような解釈は可能だろう、と言える。

しかし、彼ら紀元節復活派に対する批判になっているのか、というと、なっていない、と言わざるを得ない。

2月11日を絶対視する人たちだって、本当に紀元前660年の2月11日に神武天皇が即位した、なんて思っているのは、『日本書紀』などをろくに読んだこともないのにそんなことを言っている不勉強な人たちくらいであろう。

そもそも、科学的根拠なんて関係ないのだ。科学的な歴史学の検証に基づいた建国記念日を設けたいなんてそもそも思っていないのだ。

また、天皇中心の歴史観を浸透させたい、と思っていたりするのだから、②も、彼らに対する批判にはなっていない。天皇あっての日本、天皇が元首の日本、それを彼らの多くは求めているのだから。

だから、①②の批判は、彼らに批判として通用する内容ではないのだ。

むしろ、批判の形をとりながら、「彼ら紀元節復活派は、こんな非科学的な迷信で国の成り立ちを説明しようとしているんですよ、戦前への反省もするつもりがないんですよ」というネガティブキャンペーンを、紀元節反対派でも紀元節復活派でもない一般の人たちに向けて行っている、というものなのだ。

 

逆に、前の記事に載せたiRONNAの記事のように、紀元節復活派による紀元節反対派に対する批判も、実は、批判の形をとったネガティブキャンペーンにしかなっていない。

お互いに、議論としては全く噛み合っていないのだ。

 

さて、紀元節反対派でも紀元節復活派でもない一般の人たちが、双方の言い分を公平に聞いたら、どちらに共感する人が多いだろうか。

 

私の予想は、紀元節反対派の不人気、である。

紀元節反対派は、論理・理性を大切にしている。論理的に議論すれば、反対派が負けることはない。

一方、紀元節復活派は、論理・理性なんて大切にしていない。大切にする気などないのだ。心に訴えてくるのだ。日本は素晴らしい、天皇は素晴らしい、と。

今の世の中の流れは、どちらかというと後者だろう。

紀元節に反対している奴は日本が好きじゃないということらしい、のような、論理としては全く成り立っていない(理由はすでに述べた通りだが)言説の方が、わかりやすくて、受け入れやすいではないか。

 

だから、紀元節反対派は、諦めろ、と言っているのではない。

その風潮に対抗するために、我慢して今まで通りの反対集会・反対声明をしろ、と言っているのでもない。

その方法を見直そう、と言っているのである。

 

たとえば、代案を出してみてはどうか。

2月11日では戦前への反省に基づいていない、というのであれば、今の私たちの平和で民主的で豊かな生活の原点はここです、と言って、憲法制定やら何やら別の日を祝うことを提案してみる手もあるだろう。

2月11日では科学的でない、というのであれば、科学的根拠となりうる大宝律令制定の日あたりにしてみてはどうか。元号だって、大宝からは途切れるなく続いているので、悪くないだろう。

あるいは、フランスが革命の日、スペインが「新大陸」発見の日にしているように、日本も特筆すべき記念日を設けても良いかもしれない。

『十七条憲法』や『五箇条の御誓文』の日でも構わない。

解釈を変える、という形で、日本が立憲国家になった日、すなわち、大日本帝国憲法発布を記念する意味で2月11日を顕彰することにしよう、みたいなのも可能かもしれない。

「なるほど!よくわからない神武天皇より、そっちの方がいい!」と思われるような日を提案する、というのはひとつの案である。

 

また、教育現場や草の根レベルでの地道な活動、ということも肝心だろう。

たしかに歴史学者などが、あの日は非科学的だ、などと言っているが、今の一般の人々はそもそも学校の授業で「神武天皇」を習わない。これについては、以前「戦後歴史教育の問題点 (1) 墨で塗られた皇国史観 - 改憲vs護憲を超えて」という記事で書いた。

習っていれば、なるほど、非科学的だ、という印象が先んじていき、「神武天皇の日」に対しても胡散臭い印象を持つこともあるだろうが、習っていなければ、そういう印象も持ちようがない。

上記記事でも書いたように、戦前の歴史観を克服させる歴史教育ができていないのだ。そこから初めてみてはどうか。

 

いずれにせよ、今のままでは、反対派の声は、国民の心には少ししか届かないと思う。