改憲vs護憲を超えて

憲法改正の流れが現実的になった時に、建設的な議論ができますように

安保反対派・護憲派への冷ややかな視線

デモに参加したり集会に参加したり、というのは結構なことだが、その雰囲気の中で忘れがちなのが、自分たちへの冷ややかな視線だ。

デモでも集会でも、周りにいるのは大勢の同志。反対派なのが当然であり、正常であり、普通であるかのような雰囲気が生じてしまう。しかし、それは現実ではない。

冷ややかな視線、と書いたが、安保法制賛成派・改憲派からの視線だけではない。
むしろ大切なのは、世間一般からの視線だ。
無関心層や中立・ノンポリ層への訴えはいくらか広がっただろう。しかし、実際には、今回の大騒動は、その「いくらか」の人たちよりもはるかに多くの人たちの知るところとなり、問題提起をするところとなったはずだ。その結果がこれである。
(世論調査を見るかぎり、多くの共感を得ているのがわかるじゃないか、と思う人は、自らの心に聞いてみるといい。ならば今のまま何もせずに選挙で与党を叩いて安倍政権を倒せると思うのか、と)
 
最近の日本国民はあまりデモが好きではないらしい。暴動まがいのことも好きではないようだ。
冷静にTwitter上を眺めてみよう。デモに対しても、国会で起こったことに対しても、冷ややかなコメントが多いのだ。どうせネトウヨが、と都合よく解釈してはいけない。今まで無関心だった一部の人たちが立ち上がった一方で、今まで無関心だった多くの人たちがマイナスのイメージで関心を持ったのだ。
 
少し広がった、というプラス面だけに目を向けているのでは、もう広がらない。振り向いてくれなかった人たちに、同じ言葉で訴えても、また振り向いてくれない。これでもなお無関心だという人に期待するのも難しい。
前の記事の繰り返しになるが、悩める層、ギリギリ賛成だった層との本気の対話こそが、今求められている。
彼らに対して、初めから結論が出ているかのごとく、安保法制はダメだ、アベはダメだ、戦争はダメだ、と言っても会話にならない。彼らの悩める気持ちを真摯に聞いて、自らの主張を振り返らなければならない。
何度でも言うが、同じ主張を繰り返しても、もう広がらない。