改憲vs護憲を超えて

憲法改正の流れが現実的になった時に、建設的な議論ができますように

山本みずき氏の提起へのひとつの回答〜「自ら戦争する」と「自衛する」〜

前の記事で言及した山本みずき氏からSEALDsへの疑問について、前の記事ではSEALDsと立場を異にする私にはSEALDsの代弁ができない、と述べたが、一部分について、おそらくSEALDsと似たような立場から指摘できる部分があるのではないかと思ったので、記しておくことにする。山本氏ほどの大物に読んでいただけるとは思っていないが。

※山本氏の2015年8月25日現在の当該記事からの引用は「」付きで行う

 

山本氏は切れ味鋭く安保法制への賛成派と反対派の対立点を浮き彫りにし、以下のように反対派の主張を切り捨てる。

 

「・・・そもそも抑止力とは相手国より優位な立場を不可欠とする、互いの不安を前提に成り立つ理論であり、それによって相手がこちらに攻撃する可能性が皆無であることを保証するものではない。だからと言って、かつての軍国主義を想起し、日本がまた自ら戦争をする国になるといった認識はナンセンスである。「自ら戦争する」のと「自衛する」のとでは意味合いが大きく異なるからだ。」

 

実は、山本氏が「ナンセンス」と切り捨てた部分が、問題なのである。

山本氏はなぜそれを「ナンセンス」だと考えたのか、はっきり理由を示している。「自ら戦争する」「自衛する」では意味が違うのだ、と。集団的自衛権は自衛のための権利として行使するのであって、かつての軍国主義的な戦争をするようなところには結びつかない、ということであろう。

私も、別に集団的自衛権行使容認への賛成派が、戦争をしたくて賛成しているのではないことくらい、百も承知だ。中には戦争をしたい人もいるかもしれないが、いたとしてもごく少数派であろう。

 

しかし、以下のことを思い出しておく必要がある。かつて憲法9条をめぐって吉田茂首相に共産党野坂参三議員が質問をした際のことだ。有名な、第90回帝国議会衆議院本会議でのやり取りである(1946年6月28日)。長いが、以下に引用する。

 

"・・・戰爭抛棄に關する憲法草案の條項に於きまして、國家正當防衞權に依る戰爭は正當なりとせらるるやうであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思ふのであります(拍手)近年の戰爭は多くは國家防衞權の名に於て行はれたることは顯著なる事實であります、故に正當防衞權を認むることが偶偶戰爭を誘發する所以であると思ふのであります、又交戰權抛棄に關する草案の條項の期する所は、國際平和團體の樹立にあるのであります、國際平和團體の樹立に依つて、凡ゆる侵略を目的とする戰爭を防止しようとするのであります、併しながら正當防衞に依る戰爭が若しありとするならば、其の前提に於て侵略を目的とする戰爭を目的とした國があることを前提としなければならぬのであります、故に正當防衞、國家の防衞權に依る戰爭を認むると云ふことは、偶々戰爭を誘發する有害な考へであるのみならず、若し平和團體が、國際團體が樹立された場合に於きましては、正當防衞權を認むると云ふことそれ自身が有害であると思ふのであります・・・"

 

"近年の戦争の多く"が"国家防衛権"の旗のもとで行われたということ。"正当防衛"を根拠に"侵略を目的とする戦争を目的とした国がある"ということ。吉田首相は当時そのようなことを述べている。そして"正当防衛権を認めること自身が有害だ"という意味のことまで述べている。

さて、山本氏は「自ら戦争する」「自衛する」は違うと述べていたが、それは日本語上の意味の違いであって、実際には「自衛する」と称して「自ら戦争する」ということが可能なのである。

たとえば満州事変を考えてみよう。

安倍首相の70年談話の中では、満州事変から国連脱退の流れについて、"進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました"と述べられており、満州事変から戦争へと進んでいった、という解釈が取られている。そして、"事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない"と述べられているが、ここで登場する"事変"の中には、満州"事変"も含まれていると考えるべきであろう。つまり、満州事変のようなものは二度と繰り返すべきではない歴史である、というのが現在の政府の見解である、という理解ができるのである。

では、その満州事変とは、当時の国民にとっていかなるものであったのか。

報道では柳条湖事件奉天軍からの侵略行為であると喧伝され、それに対する戦闘行為は正当防衛であるとされた。守ろうとした満州は、日露戦争で多くの犠牲を払って手に入れた地であって、松岡洋右が述べたように「満蒙は我国の生命線である」と考えられていた。

つまり、当時の為政者・軍部はともかくとして、国民の目から見れば、満州事変とは侵略者に対する正当防衛のための戦争であったのだ。

「自衛する」と称して、満州事変の戦端が開かれたのである。しかし、柳条湖事件からの関東軍の動きは、山本氏が「自衛する」と峻別すべきと言った、「自ら戦争する」という表現にふさわしい動きであった。

 

しつこいのは承知で、以前の記事で引用したナチスのヘルマン・ゲーリングの言葉を載せたい。

 

"もちろん、普通の人間は戦争を望まない。(中略)しかし最終的には、政策を決めるのは国の指導者であって、民主主義であれファシスト独裁であれ議会であれ共産主義独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。(中略)とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。"

Wikiquote 2015.8.25現在の記事から引用)

 

侵略されていると危機を煽れば、いくらでも"自衛"を理由に戦争ができるのである。

そういう意味で、山本氏が「かつての軍国主義を想起し、日本がまた自ら戦争をする国になるといった認識はナンセンスである。「自ら戦争する」のと「自衛する」のとでは意味合いが大きく異なるからだ」と述べたのは誤りである。

「自衛する」と称して(国民は本気でそう思って)「自ら戦争する」のだから。

 

当然、反論があるだろう。

それなら、集団的自衛権云々以前に、個別的自衛権を認めて自衛隊を保持している時点で、「自ら戦争する」ことができる国ではないか、と。なぜ個別的自衛権は良くて(SEALDsの奥田氏は日刊スポーツの「学生団体SEALDsメンバーが語る戦後70年」という記事からもわかるように、個別的自衛権については容認派で、自衛隊の存在には賛成である)、集団的自衛権はダメなのか。どちらでも戦争可能なことにはかわりないではないか、と。

私もそう思う。たとえ憲法9条があっても、よほどの事態のもとで日本国民が戦争に突き進むことはあるだろう。

かつて、当時の世界で最も民主主義的な憲法があった国から最も悪辣な独裁者ヒトラーが出現した。最も平和主義的な憲法がある国から軍事国家が登場することだってあるだろう。

逆に言えば、日本以外の国はたいてい集団的自衛権の行使ができる国であるが、少なくとも民主主義的な要素を持つ先進国(日本と同じタイプの国家)を見る限り、今のところ、それを理由に戦争に参加している国はあっても、軍国主義国家に成り下がった国はない(解釈によっては、ある、という意見も可能かもしれないが)。

それは、安保法案を"戦争法案"と呼ぶことに私が反対していることと関係することであって、別の記事でもっと詳しく書くこととする。

 

ここで言いたいのは、山本氏が「ナンセンス」と思ったこと(山本氏だけでなく、多くの安保法制賛成派の方々がそう思っているのではないかと思う)は、そんな簡単に「ナンセンス」と切り捨てられるような問題ではない、ということだけだ。

山本氏は、「自ら戦争する」と「自衛する」との言葉の意味上での違いから「ナンセンス」と切り捨てたが、話はそこまで単純ではないのである。