改憲vs護憲を超えて

憲法改正の流れが現実的になった時に、建設的な議論ができますように

「護憲派」は「憲法改正禁止」に拘るべきではない

自己紹介代わりに書くが、私は一応「護憲派」のつもりだ。

しかし、「日本国憲法」の一字一句を変えさせない、という意味の「護憲派」ではない。

大切なのはその一字一句ではなく、いわゆる「三大原則」を始めとする理念である。

そして、憲法が、国家権力を縛るものである、という性格を持つものである、ということを鑑み、かつての日本の歴史の中で国家権力が犯した過ち(これについては議論が分かれるところであろうが、国家権力としてこういうことは二度と繰り返すべきでない、と思う歴史的事象は誰しもあるだろう。そのうち述べることとする)への反省の上に立っている、ということも大切にしたい。

であるから、そういったことを踏まえた上で、その精神を進める改憲であれば、何も反対する理由などない。

 

そもそも、70年前と比べて時代も変わってきている。いくらかの修正・追加があるのは、別におかしなことではないだろう。

少なくない改憲派が、「他の国はこんなに憲法を改正しているのに・・・」と言ってデータを見せてくる他国の「改憲」の例の多くは、修正・追加の類であって、根本的な新憲法制定ではない。アメリカであれば参政権の拡大であったり、フランスであれば死刑廃止であったり海外領土についての規定の変更であったり、そういったことは、こちら(諸外国における戦後の憲法改正【第3 版】 - 国立国会図書館)を見ればよくわかる(ただし、韓国のように、何度も全面改憲している国もある)。

 

一字一句でも修正することを嫌う「護憲派」の主張は、その「修正」そのものへの反対というよりも、細かい「修正」が引き金となって、改憲しやすくなって、基本理念まで破壊されてしまう、というものである(例:憲法に環境権を加える改憲ならOK? いいえ、ダメです。憲法の破壊行為です)。「改憲派」を悪意的に捉えれば、そういう狙いに違いない、と見ることも可能だろうし、権力に対しては常にそのような厳しい見方が必要だと思う。

しかし、憲法への修正・追加を行っている多くの他国が、そんなにおかしな方向に向かい続けているだろうか。あるいは、日本はそういう心配を特にしなければならない国なのだろうか。

そもそも改正条項の存在は、それだけの支持があれば改してもいい(それだけの支持がなければダメ)、という意味である。その正当な手続きによって改が決定されるならば、それに従うしかなかろう。改してはいけない、という決まりではないのだ。ちょっとした改正ですら禁止されていると言わんばかりの(本人がそう意図していなくても、そう捉えられてしまうような)主張は、却って憲法に沿わないように見えてしまうのである。

 

もちろん、そこで妥協して環境権やら何やらを追加されたら、改憲への流れが加速して、三大原則が揺らいでしまう、過去への反省が失われてしまう、という心配は、気持ちとしては理解できる。最近の政治・世論の流れや、その中で出てきたいくつかの改憲草案を見れば、そのような心配をするのはもっともだ。はっきり言って私も心配である。

しかし、あまりにかたくなに憲法改正禁止を訴えるのは逆効果ではないだろうか。なぜなら、その論理は常に「改憲派」を悪意的に捉えるところから始まるからである。それでは「改憲派」と初めから議論にならないのである。議論なく主張するのでは、相手は悪だ、こっちは正義だ、と叫ぶばかりに聞こえてしまう。それに納得してくれる一部の国民からしか支持を得られない。権力側でなく悪意もない「改憲派」の理解も得られなくなってしまう。そのような状況で「護憲派」の主張が多数派になるとは思えない。

それよりも、憲法のルール内で、粘り強く国民の理解を得られる説明をすることが大切なのではないだろうか(既にそれを行っている人々も双方にいる。どのような説明が求められるかは別の機会に述べることとする)。

たとえ環境権やら何やら新たな条項が追加されて国民が「憲法改正できるんだ!」と思って、改憲へのハードルが下がっても、「でも、平和主義は捨てちゃいけないよな」「基本的人権は尊重すべきだよな」「主権は私たち国民のもとにあるべきだよな」等々と憲法の理念を大切に考えていれば、改正条項がそれなりに厳しいのだから、「護憲派」の恐れる形での改憲は行われないはずだ。理解の得られるような説明努力をして、納得していただければ、国民投票で負けないはずだ。

もしそれが防げないのであれば、私は潔く負けを認めて、改憲後は隠棲して清談にふけるつもりだ。