改憲vs護憲を超えて

憲法改正の流れが現実的になった時に、建設的な議論ができますように

「ネット右翼」と「プロ市民」

たとえば、こんな情報が出回っている。

matome.naver.jp

 

こういう噂は今までも流れていた。

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

また、自民党に限らずどの党だろうが、このご時世、ネット上で自党のPRや、他党のネガキャンをするのは、不思議なことではないだろう。匿名でだっていくらでもできるのだから。

 

ところで、私の知り合いにも、いわゆる「ネット右翼」というレッテルを貼られがちな行動をしていると思しき人は何人もいるが、自民党工作員であるとは思えない。

仮に、本当に自民党のバイトが存在するとしても、それは一部の話であって、全体像ではないと私は予想している。

もっとも、私の予想に反して、ネトウヨ現象が全て自民党の手による演出だったら、それこそその戦略性の高さには賞賛せざるを得ない。

 

さて、問題はそこではない。

ここで、「プロ市民」という言葉と比較して考えることが大切なのではないかと思う。

プロ市民」もだいぶ使い古されてきた言葉だが、要するに、「市民」と称して反自民党的な運動をしている人たちを、「プロ」(つまり金で雇われている)であるかのように見る、「ネット右翼」側からの中傷である。

右が左を「プロ市民」と中傷し、左が右を「自民党工作員」と中傷する。

この対称性が面白い。まるで鏡を見ているようではないか。

 

私たち「左派・リベラル・護憲」派は、ともすれば彼ら「ネット右翼」たちに対して、不思議な思いで見てしまうことがある。

彼らが主張しているような、在日・反日が世の中にものすごく悪影響を持っている社会。

マスコミはNHKを筆頭に政府に反抗的なことばかりを主張しているという見方。

戦後行われてきた政治が左よりで、戦後行われてきた教育が自虐的で、という歴史観

異口同音に同じような妄想的な主張をしている、と感じて、宗教のような気味の悪さを覚えることもあるのではないだろうか。

 

そう感じた時に忘れがちなのが、私たち「左派・リベラル・護憲」派が、彼らからそう見られている、というものだ。

「左派・リベラル・護憲」派が今の社会について、マスコミや政治や教育について、主張していることも、彼らの立ち位置から見れば、「異口同音に同じような妄想的な主張をしていて、宗教のような気味の悪さを覚えることもある」内容だということ。

ここにも、対称性の構造、鏡の構造がある。

 

いや、お互いに「相手が妄想だ」と言ったところで、「こっちはきちんとした主張であって、相手は妄想なのだ」「だからこっちが正しいのだ」と言いたくなる人もいるだろう。

どっちにも、いるだろう。

そう。両派を突き放して、両派ともに信じない立場から眺めれば、「どっちもどっち」なのだ。

 

いずれかの主張を信じる側からすれば、自派が正しく、相手が間違っている、で終わるだけの話だろう。

しかし、それを互いに繰り返していたら、どういう結果が待っているだろうか。

私の予想では、声と力の大きい方が勝つ、と思っている。

つまり、「左派・リベラル・護憲」派は負ける、ということだ。

 

それが嫌なら、この対称性を崩すことから始めなければいけない。この構図そのものを打破する策を考えなくてはいけない。