改憲vs護憲を超えて

憲法改正の流れが現実的になった時に、建設的な議論ができますように

「安倍談話」と「慰安婦合意」〜スローガンとしての「子や孫に謝罪させない」〜

2015年の歴史認識問題を象徴する、戦後70年の「安倍談話」と、年末の「慰安婦合意」とはひとつの思想で繋がっていた。それは、「子や孫に謝罪させない」というものだ。

 

本来、安倍首相の支持者たちの歴史認識から考えれば、「安倍談話」にしても「慰安婦合意」にしても、受け入れがたい部分があっただろう。特に「慰安婦合意」には、首相支持者からの失望の声も多かった。

ところが、現実問題として、アメリカの意向は無視できない。

また、自民党の利益という面で考えても、「自民党より極右」の政党の躍進が(今のところ)現実的でない日本においては、多少リベラル寄り・ハト派外交の政策を取っても自民党にとっては大丈夫だということ。いや、むしろ、「民主党の実力には疑問だけれど、安倍首相の自民党だと外交がタカ派で心配だな・・・」くらいの感覚で民主党に渋々投票したくらいの層を、自民党への投票に踏み切らせるくらいの「効果」があるかもしれない。

たしかに、「慰安婦合意」には多くの保守派が反発し、もう安倍は支持しない、などと宣っていた。しかし、慰安婦問題は選挙の争点にはならない。慰安婦は大切な問題だろうが、直接国民生活や安全保障に関わることではないからだ。

結局は、他の選択肢がないために、反発した彼らも、渋々自民党に入れるか、もっと「右」寄りの候補に入れて死票を増やすだけであろう。

アメリカの覚えもめでたくなり、韓国からも譲歩を引き出せ、選挙にもプラス。自民党にとって絶妙の選択肢だったのだろう。

 

そういった背景を含めて、首相ご自身の歴史認識子や孫に謝罪させない」の思想で繋いだのが、「安倍談話」から「慰安婦合意」の流れだったと思われる。

 

子や孫に謝罪させない」という言葉は、とても聞こえがいい。批判の余地がないように見える。

しかし、言外に「謝罪すること」がマイナスである、という前提が含まれていることに注意しなければならない。日本が「謝罪させられる」被害者である、という感覚が含まれていることに注意しなければならない。

ここで、被害者意識というものが、ナショナリストにとってはとても有用なものなのである、という事実を思い出さなければならない。

そういう意味で、この言葉には気をつけて接しなくてはならない。

と思う一方で、批判するにもまた難しい問題がある。

 

リベラル・護憲・左派は安倍批判を声高にする。

「安倍談話」も「慰安婦合意」も、リベラル・護憲・左派の立場から、受け入れがたい面が大いにあった。とりわけ後者については、アメリカからの要請のもとで当事者の頭越しに日韓両政府が勝手に決めてしまった、という性格が強い。批判ならいくらでも出来るだろう。また、前者についても、欧米列強の脅威から日露戦争での「勇気づけ」という流れで歴史を振り返り始める、という論法への批判など、論点は多いだろう。

しかし、問題はそこではない。

おそらく日本会議系の多くの人々の思想には合わないような形で、安倍首相が歴史を総括したこと。

このことはとても大きな意義を持つのではないだろうか。 

 

我々リベラル・護憲・左派がいつも声高に主張するような歴史認識〜それはある種の人々から「自虐史観」と非難されるものであるが〜は、90年代以来、衰退の一途をたどっている。

その理由は様々であろうが、「親も戦前・戦中を体験していない」「祖父母でも戦前・戦中を知らない」世代が増えていけば、「なぜ私たちが昔の日本人がやったことまで謝罪しなければならないの?」という心理的反発が増していくのは自然な流れだ。「自由主義史観」や「皇国史観」を標榜する人々の訴えそのものは広く受け入れられない可能性が高いと思っているが、一方、彼らから自虐史観」とレッテルを貼られている我々の側の歴史観も、これから再び隆盛するなんてことはないだろう。

 

「子や孫に謝罪させない」という言葉は、非常に巧妙だ。

自由主義史観」や「皇国史観」にとらわれてはいないが、でもそこまで謝罪したくない、という多くの層のこころを捉える言葉だ。

一方、「安倍談話」では侵略の罪を認めた。

絶妙なバランスだ。

やはりあの戦争は悪かったよね、繰り返したくないよね、でも永遠に謝罪するのはちょっとね・・・、という自然な国民感情から受け入れやすいのだ。

そして、「子や孫に謝罪させない」に対しては反論の仕方が難しい。

理屈をこねて反論することは可能でも、理屈を好まない多くの人たちからは、感情的に、「反論するってことは、永遠に謝罪しろってことか!反日め!売国奴め!」という形で非難され、不利に陥る。

そして、ますます我々リベラル・護憲・左派が反日売国奴であるというネガティブキャンペーンは勢いを増すだろう。

 

何度もいうが、リベラル・護憲・左派が日本社会の多数派となる未来は非常に考えにくい。

二大勢力の一翼となるのだって相当困難だ。

二大勢力からも無視されない程度の存在として生き残れれば御の字だと思っている。

このまま自省なく上から目線での主張を繰り返していれば、それすらできないだろう。

仮に、これからも、二大勢力の一翼で、より右翼的な言説を述べる側が、「安倍談話」「慰安婦合意」程度の歴史認識を示すならば、まだ良いではないか。アメリカからの外圧のような情けない事情であるにせよ、そこで止まるならば、まだマシではないか。

 

さらに言えば、この際、「子や孫に謝罪させない」で良いではないか。

我々リベラル・護憲・左派だって、謝罪したくて仕方ないわけではなかろう。いずれ関係諸国からの信頼を勝ち取って、謝罪しろ賠償しろと言われなくなる方が良いに決まっているだろう。

そのための護憲であり、そのための平和主義運動でもある、とまで言ったら言い過ぎかもしれないが、そういう側面もあるはずだ。

一方的に「もう謝罪しない!日本を悪く言う歴史観は歴史の歪曲、捏造だ!」と言って謝罪をやめることに反対なのであって、「子や孫に謝罪させない」こと自体に反対なのではないはずだ。

 

だから、私は、「安倍談話」「慰安婦合意」について、「子や孫に謝罪させない」というスローガンについて、内容的には賛成しかねる部分があるにせよ、そのようなことを安倍首相が述べる、という社会には反対しない。